出会いの奇跡がある
勝海舟のことを思い出した。
勝海舟は若い頃、今後の外交には西洋兵学が必要と考えて蘭学の学習に努めました。が非常に貧乏で書物を買うお金がなかった。
そこで日本橋と江戸橋の間の小さな書物商で立ち読みを繰り返ししました。店主も勝の事情を察して、親切にしてくれました。
その書物商の常連に渋田利右衛門という函館の商人がいました。
彼は無類の読書好きで、商用で江戸へ来るたびにここに立ち寄り、書物をまとめ買いしていましたが、いつも立ち読みばかりしている勝の存在に気になっていました。店主から勝の事情を聞いた渋田は「それは感心なお方がだ。自分も書物をたいへん好きだから、一度お話をしたい」と言って、店主の仲介で二人は出会う。
少しばかり言葉を交わすと渋田は「同じ好みの道だから、今後のご交際を願いたい」と勝に申し出る。
そそて数日後、渋田は勝の家を訪れた。当時の勝の家は破れた畳三枚で、天井板は薪にして一枚も残っていなかったが渋田は特段気に掛けることはなかった。そしていよいよ帰りがけになると懐から二百両の金を出して「書物を買ってください」と言った。
勝はあまりのことに返答できずにいると、渋田は「いや、そんなにご遠慮なさるな。これであなたが書物を買ってお読みになり、そのあと私に送ってくれれば結構だ」と、強いて金を置いて帰った。
その後も二人の交流は続き、勝はますます蘭学に没頭するんです。そして遂に勝の知識は幕府の目に留まり、無役の身から立身出世の足ががりをつかむことになる。勝は出世してからも蘭学本を翻訳し、渋田に送り続けた。渋田は函館で「渋田文庫」を設け、図書館のように蔵書を開放し庶民教育に尽力しました。
勝の人間性に惚れたのか、見る目があったのか、貧しい下級武士を支援した渋田の心意気が幕末の歴史を塗り替える。渋田の支援がなかれば、勝は世に出なかったかもしれない。となると勝の弟子龍馬も維新の舞台に現れなかったかもしれないし、竜馬の奔走なくして薩長同盟成立はあり得ない。すなわち、渋田と勝との書物商での出会いが歴史を大きく動かした。渋田は享年40歳と若くして亡くなった。明治維新後、勝は渋田の恩に報いるべく、渋田書庫の蔵書のすべて数万冊を函館館奉行所で買い上げた。渋田は「図書館の租」として函館の歴史に名を遺した。
誰しも自身の人生に少なからず影響力を与えた人物が存在する。
春は出会いの季節。出会いの奇跡はどこに転がっているかわかりませんね。
スマホ脳
スマホ脳・・・
朝、目覚めるとすぐスマホを触り、天気予報やトップニュースをチェックしたりします。
朝食を食べながら無意識に触ってしまうこともある。過去、子供に食事中はスマホを障らないと注意してきたのに、今では逆のお父さん・・・と指摘されるしまつ。
仕事中もスマホを何度か触るとか。仕事をしているときも、情報を調べたり文字の校閲に使ったりして、その間にメッセージアプリでダイレクトにアポを取ったので、一本の電話すらしなかった。無論、過去にメッセージのやり取りをしたことがあったからなんですが、何年か前ならば失礼に当たったかもしれない。だけど、仕事でメールを活用する者からすれば、電話は手を止めなければいけませんが、メッセージならば都合のよい時間に返信すればいいし、内容が履歴に残るから安心。
このような利便性があるので、仕事上もスマホを手離せないでいる。
スウエーデンの精神科医、アンディシュ・ハンセンの著書「スマホ脳」(新潮新書)が世界中でベストセラーとなっています。
ハンセン氏は「スマホは最新のドラッグだ」という。
使ったことがなければ必要ない欲しいとも思わないが、使うと手離せなくなり、気付かないうちに依存症になっていく。極端なスマホ使用が睡眠障害・メンタルヘルスに悪影響を及ぼして、うつの危険因子の一つになる。頭で考えることなく、すぐに検索するため、記憶力や集中力といった知能が低下していく。人生の数年wSNSに吸い取られて、SNSを使えば使うほど人と会う時間がなくなって、孤独を感じるようになる。結果として人生の満足度を下げる、など読みながら何度うなずいたことか。
この本を読んでから、寝室にスマホを持ち込むのをやめるようにした。
寝つきが悪かったり、夜中に目が覚めたりすることがあったが改善しました。就寝前にブルーライトを浴びなくなったことが効果的だったんだろうか。「なぜか昔よりもお風呂に入っている時間に安らぎを感じる」という話を友人にしたところ「それはスマホに触らなくていいからだ」と指摘された。まったくスマホに触らず入浴する時間は、肉体的にも精神的にも幸福を感じる時間となっていたのだ。
私たちはスマホの魔力のような吸引力にあらがえず、1日の多くの時間をスマホの画面を見ることばかりに使っている。その陰で何かを失っているということか。
昔思い出した悲しい唄で始まる「パルナス」
ぐっと かみしめてごらん
ママの 暖かい心が
お口の中に しみとおるよ パルナス
甘いお菓子の お国のたより
おとぎの国の ロシアの
夢のおそりが 運んでくれた
パルナス パルナス
モスクワの味 パルナス パルナス パルナス
ではじまる、CMソングしっていますか?
パルナスの唄・・・
神戸新聞のウエブサイトに3月20日、
「ピロシキの名店「モンパルナス」移転尼崎で48年経営、大阪へ」
という維持が載っていました。
モンパルナスは兵庫県尼崎市の阪神電鉄尼崎駅構内にある喫茶&ベーカリーで、関西では有名なピロシキ(ロシア伝統の総菜パン)のお店です。
かつて「モスクワの味」をキャッチコピーとして近畿一円に280店を展開した洋菓子チェーン「パルナス」創業者の親族が、1074年に独立開業したものです。
本家本元のパルナスは2000年に廃業しましたが、モンパルナスはその「関西人の思い出の味」を今日まで継承してきた知られざる名店なんです。
記事によると、モンパルナスが閉店する理由は、コロナ禍で客足が遠のき、売上げが半減したためらしい。3月末に閉店後、大阪府豊中市で5月に再オープンを予定しています。
ところで、パルナスといえば、40歳代以上の関西人なら誰でも子供の頃観た「怖いCM」が強く印象に残っているはずです。
日曜朝の「リボンの騎士」や「ムーミン」などのアニメ番組のCMとして数十年にわたって放映されていました。
女優の中村メイコが歌い上げる「パルナスの歌」はロシア民謡の哀愁漂うメロディーで、本当の母の愛情溢れる優しい歌詞なのに、色あせた赤ちゃんのモノクロ写真やレトロ風のアニメとも相まって不気味さが際立っていた感覚が残っていました。
関西人の心を激しく揺さぶる不思議で懐かしいCM。
パルナス製菓㈱は、兵庫県加西市出身の古角松夫氏によって1947年に神戸で創業しました。神戸では亡命ロシア人が戦前に創業したモロゾフやゴンチャロフが有名でしたが、古角氏は復員船で食べたピロシキが忘れられず、ロシア風御菓子にこだわり続けました。日ソ国交回復後はモスクワの菓子工場を視察してまわり、ソ連最大の国営菓子メーカー・ボルシェビーク製菓工場から社会主義労働者英雄の称号を持つ超大物菓子職人イヴェドキヤ・オージナを招聘。
彼女の技術指導によって本場のロシアの味を完成させました。1970年の日本万国博覧会ではソ連館のレストランの運営を受託するほどでした。
しかし、パルナスはその後、洋菓子需要の落ち込みと同業他社との競争激化で売上高の減少が続いたため、1990年代末に事業の縮小・整理を進め、2000年に豊中の本社工場と全店舗の営業を停止、2002年3月に会社を清算しました。
驚くべくことに、これほどの事業展開にもかかわらず、黒字・無借金経営であり続けたらしく、そのおかげでキレイに解散することができたようです。見事な引き際といえます。
創業者の古角松夫氏は2004年に逝去しましたが、その知られざる経営手腕はもっと世の中で注目されてあるべきではないでしょうか。
昔思い出した悲しい唄で始まる「パルナス」
ぐっと かみしめてごらん
ママの 暖かい心が
お口の中に しみとおるよ パルナス
甘いお菓子の お国のたより
おとぎの国の ロシアの
夢のおそりが 運んでくれた
パルナス パルナス
モスクワの味 パルナス パルナス パルナス
ではじまる、CMソングしっていますか?
パルナスの唄・・・
神戸新聞のウエブサイトに3月20日、
「ピロシキの名店「モンパルナス」移転尼崎で48年経営、大阪へ」
という維持が載っていました。
モンパルナスは兵庫県尼崎市の阪神電鉄尼崎駅構内にある喫茶&ベーカリーで、関西では有名なピロシキ(ロシア伝統の総菜パン)のお店です。
かつて「モスクワの味」をキャッチコピーとして近畿一円に280店を展開した洋菓子チェーン「パルナス」創業者の親族が、1074年に独立開業したものです。
本家本元のパルナスは2000年に廃業しましたが、モンパルナスはその「関西人の思い出の味」を今日まで継承してきた知られざる名店なんです。
記事によると、モンパルナスが閉店する理由は、コロナ禍で客足が遠のき、売上げが半減したためらしい。3月末に閉店後、大阪府豊中市で5月に再オープンを予定しています。
ところで、パルナスといえば、40歳代以上の関西人なら誰でも子供の頃観た「怖いCM」が強く印象に残っているはずです。
日曜朝の「リボンの騎士」や「ムーミン」などのアニメ番組のCMとして数十年にわたって放映されていました。
女優の中村メイコが歌い上げる「パルナスの歌」はロシア民謡の哀愁漂うメロディーで、本当の母の愛情溢れる優しい歌詞なのに、色あせた赤ちゃんのモノクロ写真やレトロ風のアニメとも相まって不気味さが際立っていた感覚が残っていました。
関西人の心を激しく揺さぶる不思議で懐かしいCM。
パルナス製菓㈱は、兵庫県加西市出身の古角松夫氏によって1947年に神戸で創業しました。神戸では亡命ロシア人が戦前に創業したモロゾフやゴンチャロフが有名でしたが、古角氏は復員船で食べたピロシキが忘れられず、ロシア風御菓子にこだわり続けました。日ソ国交回復後はモスクワの菓子工場を視察してまわり、ソ連最大の国営菓子メーカー・ボルシェビーク製菓工場から社会主義労働者英雄の称号を持つ超大物菓子職人イヴェドキヤ・オージナを招聘。
彼女の技術指導によって本場のロシアの味を完成させました。1970年の日本万国博覧会ではソ連館のレストランの運営を受託するほどでした。
しかし、パルナスはその後、洋菓子需要の落ち込みと同業他社との競争激化で売上高の減少が続いたため、1990年代末に事業の縮小・整理を進め、2000年に豊中の本社工場と全店舗の営業を停止、2002年3月に会社を清算しました。
驚くべくことに、これほどの事業展開にもかかわらず、黒字・無借金経営であり続けたらしく、そのおかげでキレイに解散することができたようです。見事な引き際といえます。
創業者の古角松夫氏は2004年に逝去しましたが、その知られざる経営手腕はもっと世の中で注目されてあるべきではないでしょうか。
誰のための奉仕?年金延長・・・
明治の初めの頃、ドイツ帝国は富国強兵・対外強硬策を推進してドイツを統一していました。
その中にいたのがビスマルク。
鉄血宰相である。 「統一は鉄(武器)と血(兵隊)によってなされる」
という軍事拡大演説をして以来、そうあだ名されました。この鉄血宰相は1889年に世界で初めて公的年金制度を作りました。
当時の平均寿命は47歳だったんですが、支給開始年齢は70歳。
ほとんどの人が恩恵を受けられなかったようです。「国民は国家に奉仕すべき」という考えが、社会福祉にも及んでいたんですね。
その頃、日本から岩倉使節団が渡欧していました。大久保利通はビスマルクを「大先生」とい評価するほど感銘を受け、伊藤博文は憲法の研究にドイツを選びました。明治政府の施策には鉄血宰相のDNAが入っていたんですね。
さて、現在の日本。
年金は支給開始年齢を引き上げられ、あわせて定年を延長する方向にあります。企業は65歳までの高齢者雇用を義務付けられていますが、この4月からは、本人が希望すれば70歳まで働き続けられる制度整備が努力目標となった。高年齢者就労確保が努力義務となってんです。この「義務化」へと移行すれば、年金の支給開始年齢の引き上げも可能になるという思惑もあるんでしょう。
団塊世代が75歳を迎える2025年問題。
同年には75歳以上の後期高齢者人口が2200万人近くになると予想され、5人に1人が後期高齢者という世界に突入する。そこで平均寿命が延びて医療保険給付が増える一方で、生産年齢人口が減少して経済成長が鈍化し、社会保障費が不足するのはほぼ間違いないと見られます。現役世代の負担を抑える上でも、高齢者の就労期間をできるだけ延ばし、年金支給額を減らす事が問題解決の一策につながる。
企業も役職定年であらかじめ手当てを下げて、定年後の再雇用でさらに人件費を削ることで企業防衛を図る。
70歳までの就労はもはや既定路線です。
ただ、誰もが100歳まで健康でいられるわけではありません。気力、体力、免疫力は年々低下していきます。とくに70代ともなれば落日のごとしです。ちょっとした階段でもつまずきバランスを崩しやすいなど、転倒リスクも大きい。それでも公的年金の財源が不足して年金支給額が減らされていけば、雇用延長策に沿って働かざるを得ない。
総務省のデータによると、70歳を過ぎても男性の約3割、女性の約2割が働いています。老後の生活に ”夢の年金暮らし” を描くことは難しいですね。
こうした残酷な未来を商機とみて、積み立てや個人年金保険などの新ビジネス提案が盛んです。「誰かに奉仕する人生」は何歳まで続くんでしょう。・・・
こんなにあった! 倒産が減ったワケ
こんなにあった! 倒産が減ったワケ
前回は「倒産激減」と題し、2020年の銀行取引停止件数が大幅に減少したことについて、コロナ禍の影響を受けた事業者の資金繰りを支援すべく、不渡り報告はの掲載・取引停止処分を猶予するなどの特別措置がとられたこと。
政府による個人事業者や中小企業向けの資金繰り支援策が打ち出され、救済資金が大量に出回った事。また、倒産の減少が12年間も連続していることについては、中小企業金融円滑法が影響したと書きました。
ただし、これらの救済策は緊急時のセーフティーネットとして適切に運用されているのであれば問題はないんですが、政府の過度な政策介入は自由主義経済における新陳代謝である「参入と退出の自由」を妨げてしまう恐れがあって、したがって不健全であると指摘しました。
しかし、これらは非常時の特殊要因であって、実は根底にもっと普遍的な理由が存在しています。せっかくなので、この機会に簡単に書いておきます。
とりあえず最初に挙げておくべき理由は「手形取引の減少」です。
近年は業種を問わず、手形取引をやめて期日厳禁取引に変更するケースがかなり浸透しています。
かつては受取手形に裏書きして他の支払いに充てる裏書譲渡手形も多かったんですが、手形自体の減少で連鎖倒産がなくなりました。
なお、経済産業省は紙の約束手形を2026年までに廃止する方針を発表しています。
また「金融緩和政策」も倒産が減った大きな理由といえます。
景気対策で大量のお金が刷りだされていて、ゼロ金利政策で資金調達コストも低下しました。ただ銀行は、ゼロ金利では貸し出しで儲けが取れず、経営内容が悪い企業への融資は御免こうむりたい。そんな銀行に代わって、保証協会の保証付き融資、政府系金融機関の融資が増えました。これで倒産を免れた企業も少なくないはずです。
「取引信用保険やファクタリングの発達」で貸し倒れリスクが軽減されたことも重要です。今や「保険が掛かるかどうか」、「いくらまでなら掛かるか」が取り引きの判断材料に活用されるようになりました。ただリスクを肩代わりする保険会社の負担は大きくて、不況業種は端から相手にされないこともあるようです。
長期にわたるデフレで「経営者の慎重姿勢」が強まったことも影響しています。
経営者の多くが積極拡大策や設備・在庫投資を手控え、身の丈にあった商売を指向する傾向にあります。業績アップを目指して増産しても、見込み違いで大量に売れ残ろうものなら悲惨です。不漁在庫は倒産に直結しやすいので要注意です。
他にもABL(動産・債権担保融資)など資金調達の多様化、M&Aなど事業承継手段の発展、再生ファンド、在庫処分代行業者の登場など、これだけ要因が揃えば倒産の減少はもはや必然なのかもしれません。
なお、その一方で目下「廃業」が急増しています。・・・
花粉症対策
終日、目がかゆく、鼻はつまり気味で、口内も荒れています。
外出した後は目薬を差して、一日一錠処方薬を飲み続けていますが、気休め程度にしかなっていなせん。
今年もこれから約2ヶ月にかけてこの厄介な症状と対峙せねばならないのか、と考えただけでも気がめいります。
日本人の約4人に1人が患うといわれるのが「スギ花粉症」。
戦後、政府推奨で行なわれた大規模植林政策が、数十年という時を経て大量の花粉を飛散する原因となりました。都市化が進みアスファルトやコンクリートなどの地盤が増えとことで、一度地面に落ちた花粉が舞い上がり再飛散するという現象も進んでいます。そんな事情を知ると、人間の手で禍の種をまいたのかと複雑な思いに至ります。
花粉症対策といえば「マスク」が欠かせない。ついこの前までは「マスクを着けてままの訪問は失礼ではないか」というビジネスマナー論もあって、この時期は色々と気を遣ったりすることも多かったですが、今やマスクを着用しないで外出することがマナー違反となりました。
ことの経緯は歓迎できるものではなくて、みんながみんな、マスクを着用する日常は早く過ぎ去って欲しいと願うんですが、花粉症に苦しむ者にとってはマスク着用に必要以上に過敏にならなくて済むようになった点は正直有り難いところもあります。
マスクといった直接的な対策以外にも、「洗濯物を外干ししない」「帰宅時に玄関前で花粉を落とす」なども重要です。もちろん、衣類に付着した花粉を室内に持ち込まないためです。衣料用素材の中で最も花粉が付着しやすいのは「ウール」。
家庭用品メーカーのライオンが行なった実験によると、花粉シーズンにウールのセーターを着て1時間外出したところ、セータ一着に約7万9千個もの花粉が付着したというから驚きです。一方、ポリエステルをはじめ化学繊維は比較的付着しにくいため、メーカーは様々な工夫を凝らしてそのニーズに応えています。花粉対策のスプリングコートも定番になりました。高密度に織られた、表面の凹凸が少ない平らな生地を使用。花粉が付いても表面が滑らかなために、付着した花粉が滑り落りるそうです。
皮肉なもので、人の悩むところには商機があります。薬にマスクにコートにと花粉症対策グッズは今が旬。ただ、そうした対策用品ではなく、飲んだら一発、効果的面の薬の開発は出来ないのでしょうか。
それこそお金に糸目は付けずに飛びつくんですが・・・・。