他人と比較して、他人が自分より優れていたとしても、それは恥ではない。「不幸な比較」に惑わされるな。
こんにちは。
今日は、不幸な比較について話してみます。
「比較」を辞書で引くと「二つあるいは三つ以上のものをくらべあわせて、そこに認められる異同について考えること」とあります。
改めて書くまでもないことですが、比較というのは、対象となるものの違いを捉えることです。
私たちは普段、意識、無意識を問わず、絶えず比較する、あるいはされている環境の中で生活しています。
モノを買うとき、似たような商品であったならば、一体どちらがお買い得なのか、品質は、値段は等々を当然考える。いや、全く同じものであっても、手に取れるものならば、その中からどれがいいかを目で見て、選ぶことが多いだろう。
コト消費の場面でも同様です。
目的の範囲内で、出来るだけ良いサービスを、良いトコロでと考えるのは、ごくまっとうな思考。
辞書にはないが、比較するということは、自ずと優劣をつけることのも繋がります。これが消費活動ならさしたる問題にはならないんです。消費者の支持を得られたものが残り、そうでないものは淘汰されて消えていくのが市場の原理です。
また、その過程では生き残るための開発競争が進み、結果として業界市場や経済全般が活発化していくサイクルも生み出されるため、比較行動は絶えず必要不可欠なんです。
一方で、色々と複雑になってくるのが人間同士、いわゆる「社会的比較」と呼ばれるもの。
程度のちがいこそあれど、学校、職場といったコミュニティーのみならず、身内でも日常的に起こりうる。
「〇〇に比べて〇〇は・・・」とされた後者は、当然いい気分はしない。
それでも、それをバネとして発奮できるならば比べた意味もあるし、それが必要な時も間違いなくあるのがだが、残念ながら、真意が伝わらずに無益な劣等感を植え付けてしまう事も少なからずあるんですね。
事実、目を覆いたくなるような事件の犯人がこうした劣等感に苛まれていたケースは数え切れないほどある。
そして、最近ではこうした感覚をわざわざ自らの手で植え付けてしまうケースが急増しているそうだ。その原因はSNSの台頭にある。
以前は、比較対象となる相手はせいぜい自身の生活圏にしかなかった。ところが、今や全世界の他人が比較対象になる時代です。会ったことも、話したことすらない、全くの他人が生き生きと活躍している姿や、楽しそうにしている様子をSNSで見て、「彼らに比べて自分は・・・」と自らの存在価値に否定的になるという。
SNS上の世界はある部分、見栄の張り合いのばでもあります。そこにどれだけ本当の姿があるのだろうか。
他人はあくまで他人、そんなところに気をとられすぎて無理をしたところで、決して幸せになれない。
「他人と比較して、他人が自分より優れていたとしても、それは恥ではない。しかし去年の自分より、今年の自分が優れていないのは立派な恥だ(ラポック/探検家)。
そう、唯一無二の存在である自分の比較相手は自分自身なんです。
いかがでしたか。独り言でした。
では明日も、みなさんにとって良い一日でありますように。