「遊王、徳川家斉」を読んで 偉人の影に偉人ありを思った
こんばんは。
今日、本屋さんで、面白そうな本を見つけました。
「在位50年、子供は50人以上」と帯がついていて、
見たら、 「遊王、徳川家斉」 (文春新書) を手に取った。
徳川11代将軍の家斉は、15歳の若さで将軍の座に就き、
50年間にわたってその重責を担った。他の徳川将軍家に比べ、
彼の歴史的功績が語られることは少ないが、華やかな文化文政の世を築き、平和な世を永年続けたことは評価されるべき。
家斉と同じく長期政権だったのは4代家綱で、彼は11歳で将軍家を継承して、在位期間は29年。
こちらも徳川幕府の基礎を確立した3代家光、
生類憐みの令の5代綱吉と比べて知名度は低い。
だけど、彼は武力を背景にする武断政治から学門(儒学)による文治政治への転換を図ったんですね。
また戦国時代からの遺風であった大名から人質を取る制度(大名証人制)と殉死を禁じた。
殉死の禁止により、優秀な人材が喪失するのを避けられた。
この2つの決定を総称して ”寛文の二大美事” といいます。
彼を補佐にした幕臣も優秀でした。その中心人物が保科(ほしな)正之。
彼は、江戸時代最大級の災害 「明暦の大火」 の陣頭指揮に当たったことで知られています。
1657年(明暦3年)1月18日、本郷から出火し瞬く間に江戸中に広がった火事は二昼夜におよび江戸の大部分を焼失しました。
江戸城も天守閣をはじめ本丸、二の丸、三の丸が焼け落ちて、無事だったのは西の丸だけだった。
幕府は将軍の城外への避難を打ち出したが、正之は 「西の丸が焼け落ちたら、屋敷の焼け跡に陣屋を立てればよい」 として将軍を江戸城にとどままらせた。
有事の際に政治の中枢にいる人物が逃げ出してはならないことを示しまたものでした。
保科正之は被害者支援にも尽力しました。モノ不足のなか物価の高騰は避けられない。
そこで、米の値段を上限を決めて不当なコメの高騰を防止しました。また、連日粥の炊き出しを行なって、江戸の町民には救助金を支給しました。
幕府からは 「これでは金蔵が尽きてしまう」 と反対の声があったんですが、「幕府の貯蓄はこういうときに使って民衆を安堵させるものだ」 と一喝しました。
権威の象徴、江戸城の天守閣は再建されなませんでした。保科正之が 「再建にカネ費やすのは庶民の迷惑にしかならない」 と否定したからです。・・・
彼の政治的判断の後ろ盾には家綱がいたことは言うまでもありません。
正之は 「自分が将軍よりも目立ってはいけない」と、死ぬ直前に自分の業績を記した書物を焼却させたため、彼にまつわる資料そのものが少ない。
名を残した人物のみが偉人ではなくて、その陰には厚い信頼関係で結ばれた縁の下の偉人たちがいるんです。彼らの参謀なくして偉人は偉人たり得なかったのだ。
さて、某同盟国の前大統領補佐官が出した回顧録が話題となっています。
こうした暴露本的な出版物が退任から時間を置かずに出てくる事実からして、大統領以下、側近たちに偉人になり得る人物はいないということでしょうね。