お金とけがれのお話について
こんばんは。
いつも日課にしているウオーキングのコース途中に神社があります。
時々立ち寄ってはお参りしていますが、なぜか賽銭箱が4つもある不思議なじんじゃなんですね。
神社の掲示板には日々、人々への教えが書かれた紙が貼られていて、読むたびになるほどと思ったりしていますが、その内一つに
「お金は ”けがれ” を吸引します。賽銭を投げることは、身を清めることです」 とあった。
日本人は普段、あまりお金の話をしたがらない。独特の美徳感によるものなのか、人間関係に支障を来すことにも繋がりかねないからか。
逆に言えば、こうした意識が途切れる場面ではドライになれる。
離婚の慰謝料や手切れ金、あるいは会社を辞める際の退職金など。
この先の関係も美徳感も気にする必要がなくなるからです。
お金といえば収入の多寡は、だれもが気になるところ。お金は腐らないからあって困ることはない、自分自身のステータスを示す大きな指標ににもなるから、もらえるものはもらいたいと多くの人が願うが、
実際は年収ウン百万円を越えると、逆に幸福度が下がるという調査結果もあります。
あるいは、 「お金と灰皿は貯まれば貯まるほど汚い」 などとさげすむようなことも聞かれこともあります。
お金は万能な部分、余計なトラブルや煩悩を増やすこともあるから、
”けがれ” を連れてきているのもあながち間違いではないのかもしれない。
日本で最初の貨幣 「富本銭(ふほんせん)」が登場したのは7世紀後半。以降、朝廷が次々と貨幣を発行すんですが、次第にみすぼらしい貨幣が流通するようになって、いつしか悪貨が良貨を駆逐することとなる。
人々の朝廷への信頼が低下したことで、 「乾元(けんげん)大宝」(958年)を最後に朝廷が貨幣の発行を一旦は中止しますが、その後、農業や手工業の発達で、再び貨幣の需要が高まることに。
だが、貨幣への信頼の低さから銘々が勝手に作った 「私鋳銭(しちゅうせん)」 といわれる貨幣、いわゆる価値の低い粗悪な悪銭 (鐚銭(びたぜに))が流通するようになる。
現在の 「ビタ一文払わない」 はこれに起因した用語なんです。
当然、こうした貨幣の受け取りを拒む行為 (撰銭(えりぜに)) を禁止する令 (撰銭令) まで出したというから驚きだ。けがれていようがいまいが、しょせんお金に色はついていないということだったのがろうか。
お金にまつわるトラブルは古今東西、消えてなくならない。
ただ、本当にけがれが溜まるとすれば、それはお金そのものではなく、持っている人の心でしょうね。