リョウガのページ

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山本寛斎さん逝く

こんばんは。

先日、国際的ファッションデザイナーの山本寛斎さんが亡くなりました。

急性骨髄性白血病でした。

異母弟で俳優の伊勢谷友介さんは、インスタグラムで 

「やりきる人生、命を使い切る人生。最後までかっこよかったです」 と

追悼しました。

またファッションを通じて交流のあったタレントのデヴィ夫人は、自身のツイッターの中で

「唯一無二の寛斎ワールドに大拍手。悲しみが止まりません。合掌」と

死を惜しんでいました。

 

1971年、ロンドンで日本人として初めてファッションショー

『KANSAI IN LONDON』 を開催して世界から注目を集めました。

ショーを成功に導くコンセプトになったのが 「和」 の要素です。

歌舞伎に着想を得たデザインが大好評で、 

「日本の美しいもの、それが世界でも通用することを証明したかった」 との言葉通り、西洋にはない日本の美を多彩に表現しました。

 

勢いは止まらず、1974年パリで 

『Kansai in  Paris』 を開催し、1979年にはニューヨーク・コレクションに参加。

既成概念を壊すようなアヴァンギャルドなデザインが流行に敏感な若者から支持を得ました。

1980年にはパリ、ミラノ、サントロペなどに 「ブティック寛斎」 をオープンして、世界的デザイナーとしての地位を確立。

デヴィット・ボウイの衣装も手掛け、

スティービー・ワンダーなど一流アーチストとの交流も広げました。

1985年から東京コレクションに参加。

1993年モスクワでスーパーショー 「ハロー!ロシア」 を開催し、

イベントプロデユーサーとして活動の幅を広げていった。

 

いつも明るい寛斎さんだが、家庭環境は複雑でした。

幼少期に両親が離婚して父方に引き取られます。

しかし父親の育児放棄により転校を繰り返し、

児童相談所に預けられたこともあった。

その後、父方の祖母がいた岐阜市に落ち着いたが

「父のような男はいらない。結婚したら妻と子供を命懸けで守る」と

決めていたという。

中学校に入ってからは家業の洋服縫製の手伝いをするようになった。

友人から制服の改造を頼まれてミシンを踏むようになり、

さまざまな縫製技術を覚えたことがファッション業界へのスタート地点だったのかもしれません。

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母校である岐阜工業高校の制服は、当初は ”学ラン” だったが、

寛斎さんデザインの少しグリーンがかったブレザースタイルに変わった。

そして体育館には、同じく彼デザインした 「山」 と 「朝日」 をイメージした美しい緞帳(どんちょう)が揺れている。