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ファーストサマーウイカの「大叔父が石津謙介です」といえばアイビールックの「VAN」ですね。

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先、テレビ番組でタレントのファーストサマーウイカさんが

「大叔父が石津謙介です」 と明かして、ちょっと話題になりました。

 

団塊の世代にとっての代表的なファッションブランドといえば、

アイビールックの 「VAN」ですね。

懐かしいな、アイビールック | yamahideyのブログ

戦後、中国・天津から引き上げてきた創業者石津謙介氏が、

1951年に大阪市北炭屋町(現在のアメリカ村」 で「石津商店」を

立ち上げたのが始まりなんです。

当初は普通の高級紳士服メーカーだったんです。

商品を渡して、現金を得て、それで生地を買うという自転車操業でした。

まだ物不足の時代でした。当時、戦前からのお金持ちは「高級品がほしい」と飢餓状態にあって、それを満足させる商品を提供してたんですね。商品の良さが口コミで広がって、阪急梅田本店から「場所を提供するから売ってくれ」 と要請を受けました。

今で言う ”セレブファンの後押し”です。

アイビールックは、米国東部に名門8大学のアメリカン・フットボールリーグのファッションから生まれました。

石津氏は天津で進駐軍の通訳を務めていましたが、通訳した米軍中尉がアイビーリーグ出身で、「流行に左右されることなく、品質の良いものを長く着ること」がアイビールックと教えられるんですね。トラッド精神。

53年には実際に渡米して本場を視察。

研究を重ねて、59年に自らデザインしたアイビースーツを 「VAN」 と称して発売しました。人気に火がついたのは63年頃からですね。

新劇俳優の信欣三氏は天津時代の友人だったんです。

信氏は大阪公演のとき、石津氏の会社を訪れては出世払いとヴァンジャケットを持ち帰っていました。

その後、宇野重吉氏、小沢栄太郎氏などの俳優仲間も訪れるようになって、動く広告塔となって全国にVANの名前を広げてくれたんです。

テレビの衣装提供の先駆けのような展開でした。

「工場も大阪よりも東京の方が評価は高くなる」と、両国や墨田の業者の協力を得て、東京生産に切り替えたんです。

イメージ戦略なんですが、本格化したのは「メンズクラブ」(当時は男の服飾)とのタイアップ(60~64年)でした。

VAN特集の一部を買い取り、小売店に配布、メンクラは機関紙的役割も担っていました。まだ、”男のファッション”がなかった時代、アイビースタイルの基本を掲載することでファンの拡大を図りました。

石津氏は65年に再び渡米して、米国東海岸の学生のキャンパスライフを16ミリフィルムで撮影、写真集「TAKEIVY」を発行して独自キャンペーンに乗り出す。

66年は「MAN MAKING VAN」、67年は「DISCOVER AMERICA」と、次々にキャンペーンを打ち出して若者の注目を集めました。

そのピークは73年。

その後も強気の施策を講じましたが、流行も変わり在庫は膨らむばかり。

それを売ろうと安売りに走って、78年に480億円の負債を抱えて倒産しました。

石津氏を「経営者ではなかった」という論評もありますが、一時代を築いた非凡なその才能は否定できないかも。・・・