我つながる、ゆえに我あり
我つながる、ゆえに我あり
「きょ年の服では、恋もできない」。
ちなみにこのコピーはTCC(東京コピーライターズクラブ)を受賞しました。去年の服はもう古い。今年の色、デザイン、メークにこそ新しい価値がある。異性、あるいは誰かに認められたいから、今年の服を追いかける。
こうした女性たちの流行に遅れたくない、トレンドから外れたくないといった心理が、ファッション消費の根底にあった。それは他者と同じでありたいという同一化願望でもある。
その一方で、人には他人と違っていたいという差異化願望も潜んでいる。
「同じでありたい」と「違っていたい」。
相反する気持ちが共存している。人とはやっかいな生き物である。
だけど、人間にこの二つの欲望があったからこそ、ファッション産業が存続してきたともいえる。流行は常に流動性えお伴い、ときめきという新たな需要を生み続けてきた。それは、「変化の発生と消滅」という周期の連続であって、この繰り返しがファッション産業のシーズンごとのビジネスを支えてきたという側面もあるのでしょう。
多くのモード誌などが、記事と広告で「変化のための変化」を採り上げては発信してきた。「この夏は〇〇がくる」という毎年変わらぬ見出し。
誰がそれを決めたのかわからなくても、同じメークをした仲間たちと「そうなんだ」と相づちを打つ安心感。同時にわずかな差異をその先に求める。ファッションを楽しむとはそういことだったのかもしれない。
ファッションは若者の関心事のい上位から転落したきた。お小遣いは服よりもソーシャルネットなどの通信費に優先的に費やされる。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」というフレーズも生まれた。今や、人とつながるための手段としてスマホは欠かせない。だが、米国の臨床心理学者シェリー・タークル氏はソーシャルネットでつながるのは「ひとりが悪い事のように思える禁断症状」と指摘する。「ずっとつながっていれば寂しくならないと思われがちだが、それは全く逆。ひとりが苦手だともっと孤独になる」。スマホでつながりを求めるほどの孤独感。
デジタル・ネイティブ世代ほどスマホは生活の一部となっている。この世代は家族、友人、社会と接触する機会が少なくなっているという調査もあって、うつ病や自殺、社会的孤立の要因につながっているという警告もあります。
友だちと会って、気軽にファッション談議することさえはばかれる時代。
あれだけ ”絆” が言いはやされた3・11から、10年になろうとしているのに。