渋沢栄一の生き様を描く大河ドラマに次ぐ 天下の糸平とは
日曜日、夜8時からNHK大河ドラマを見ます。
今年は、渋沢栄一の生き様を描く「晴天を衝け」。
話は、幕末に突入して、これから明治維新へと進む。
「明治維新当時の財界における三傑は、三井の野村利左衛門(三井銀行の創設者)と
天下の糸平こと田中平八をあげなければならない。
いずれも無学でありながら、これほど非凡の才能を備えた人を見たことが無い」
称えている。
”糸平”と呼ばれた男、田中平八は、糸に由来があります。
長野の農家の三男坊として生まれた平八は、12歳で魚屋に丁稚奉公に出されました。
子どもの頃から商才があって、15歳にして早くも魚屋を独立開業しました。
19歳で結婚、この頃から商売で名古屋を訪れるようになり、そこで米相場を知ります。
才覚からか名古屋の米相場で大儲けしましたが、まだまだ青二才。
大阪の堂島ではプロの相場師にひねられて大損して、借金を背負うことになる。
その後平八は、借金のい返済もあり、長野を離れて横浜で働きはじめます。
32歳の頃、横浜の町は生糸相場に沸いていました。世界的に生糸が不作で、そのあおりから
日本の生糸が世界から注目を集めます。外国人は、高値で生糸を買い漁る。
平八は、ここに目を付けた。「生糸は故郷にある」。
横浜に「糸屋」の商号で店を構えた平八は、その初仕事として故郷長野に戻った。
生糸の買い付けのためでした。そのため平八の宿には「貸した金返せ」と村人が押し寄せた。
平八は、集まった村人を前に豪語する。「ここに全財産300両ある。だが、これでは借金を返すことができない。とにかく今日は俺に2千両分の生糸を売ってくれ。代金は2ヶ月後に必ず払う。
借金も2ヶ月後に必ず返す」。;
借金をしている男を取り立てたところ、金を返すどころか、更に金を貸してくれ、その金で生糸を売ってくれという。こんな男を信用できるかという話だ。それでも村人は応じた。平八を信じたのだ。平八には信用に値するなにかが備わっていた。それはおそらくは正直さ。
自身の一手をつまびらかにさらけ出した愚直さだろう。
横浜に戻った平八は生糸を仕入れ値の10倍で売りさばき、借金を完済、取引した先も大儲け。
平八の名は横浜で知れ渡り、生糸の売り込みと洋銀相場の取立てで巨額の利益を得て、
「糸平(糸屋に平八)」と呼ばれました。
晩年は大相場師として名を馳せ、巨万の富を築き、渋沢をはじめ政財界の大物が
”天下の糸平” と称えられました。