リョウガのページ

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世間とは・・・

 

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日本人は競争社会で個性がせめぎあう関係の中で生きるより、与えられた位置を

 

保ち心安らかに生きたいと思いながらも、周囲を気にする

 

日本人は自分以外の権威としての世間に依存して生きている。

 

みんなとともに行動するときはみんなと合わせようとするし、

 

意見を聞かれたときは他人の意見を聞きながら自分の意見をそれに合わせたりする。

 

西洋中世史の学の阿部謹也氏は、日本固有の社会観 「世間」 の研究家。

 

欧米における社会とは尊厳を持った個人が集まったもの。

 

一方、わが国では欧米の意味での個人は生まれていないに、社会という言葉は通用している。

阿部氏は「欧米のような社会があるかのような幻想が生まれて、わが国の社会の未成熟

 

や特異性が隠される事態となった・・・といっています。

 

人間関係によって育まれてきた日本の 「世間」 と、個人を前提とした西欧の集団

 

「社会」とは異なるもの。だからこそ、子供が罪を犯したとき、親は世間に謝罪し、

 

バッシングにもあっている。

 

地球温暖化の研究でノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎氏は、日本より米国の方が

 

自由に研究しやすいといったコメントを出してきたんですが、真鍋氏においても世間の

 

壁が研究活動に立ちふさがっていたんでしょうか?

 

科学史を専攻する神里達博氏も「リスクの正体」で、日本を実質的に支配しているのは

 

「世間」であって、「社会」は明治になって輸入された外来概念であると指摘しています。

明治以来、近代国家を建設してきたが、基礎が不安定のまま、高いビルを建設してしまったのかもしれない。

少し強い風が吹くと容易に揺らぐ。最近の過剰なバッシングは、もしかするとその

 

兆候の一つではないでしょうか」とみる。個人の尊厳や自由ではなくて、

 

女性誌ではないてれど世間の常識を振りかざして攻撃する。不適切な社会的制裁は

 

人権侵害にあたるといったことが意識されていない。

 

子の不祥事に親としての責任と問われるように、社員としての責任を自覚しろ、社長

 

としての責任は重い、といった非難の声も。

 

この責任は与えられた立場の役割についての責任追及。自由意志に基づいた行為に対す

 

る責任ではないかと。近代社会の基礎ともいえる「自由と責任」ではなくて、世間とい

 

う集団内の立場と責任論、落とし前である。

 

迷惑をかけない限り自由である、という意識の中にも、周りを気にするという世間的

 

自由が隠されていますね。日本人の考える自由と、欧米人の考える自由がこのように

 

異なるものだとしたら、近隣の中国や韓国人が考える自由とも実際には違うものかもしません。