鎌倉殿の13人をみて思ったこと。
歴史ドラマなのに、三谷幸喜の脚本もあってなんだかトリッキーな演出。
もっとシリアスな感じでもよかったのに。
そこでちょっとシリアスなお話を・・・
源頼朝は平惟盛(これもり)率いる平家軍を破り、富士川から撤退させた翌年(1181)
鶴岡八幡宮で棟上げ式を行ないました。
当時、宮大工は関東には少なくて、浅草から呼んで造営しました。頼朝はこの宮大工に
褒美に馬を与えようとして、「馬を引け」と義経に命じました。「吾妻鏡」はその時、
義経がなぜ、家人に命じず弟の自分に言うのかと鼻白んだと記しています。だけど、これこそが義経の思い上がりでした。
彼は頼朝の連枝(れんし)として坂東の御家人よりは一格も二格も高いと思っていました。
その思想は頼朝にとって足元を崩すほど危険だったんですね。
頼朝は坂東武士団の推戴(すいたい)を得て、ただ一人世に立つ存在でしたが、戦いの
主役はあくまで坂東武士。義経を王族のように扱えば、坂東武士たちの信用を失うのが
現実でした。義経には頼朝の本意が生涯理解できなかったとおもわれています。
長い流人生活の頼朝と、源氏の御曹司として奥州藤原氏の下で育った義経の違いがそこにあるんですね。
「一所懸命」という言葉があります。これは鎌倉時代の武士が命懸けで自分の土地を守っていたことを示します。
そこから命懸けで取り組むという意味にも広がりました。近世に入って 一所(領地)が一生と混同され、今では一生懸命が普通になっています。
義経は兄の頼朝のためにひたむきに源平合戦に臨んだのでしょうが、この源平合戦の
本質は坂東武士が西の権力者たちから、自分の土地を守ることにありました。
石橋山合戦(1180)で大敗した頼朝が房総半島へと舟で逃れて、その地の上総介平広常
や千葉常胤(つねたね)などの参戦を得ることで、わずか40数日後に鎌倉入りできたのは、京の平家に対する坂東武者の不満が大きかったから。
公地公民として国家が保有する耕作権を人民に貸し与えた班田収受制。
新たな土地開墾の意欲を高めようと制定した三世一身法。
743年には墾田永年私財法で土地所有を法的に認めました。だが、公地公民(律冷制)が崩壊しても、土地開墾ができるのは資材のある貴族や僧に限られていて、荘園制へと
変化しただけでした。その荘園を警備したのが武士の始まり。
荘園を管理しても所有者は貴族で、いつその土地から追われるかわからない不安定な
身分が武士なんです。そうした貴族たちに出入りしてうまく取り次ぐ役を果たしていたのが、武士の棟梁でした。
棟梁は主君ではなかった。鎌倉幕府誕生は領地の安定という 一所懸命 の結果なんです。
今時の都心新築マンションの高騰は、庶民の一所懸命では解決できない水準かも。