イワンのばか
イワンのばか
古代・中世のロシアは居住地区を木柵などの防護壁で取り囲み、軍事指導者は
「公」(クニージャ)と呼ばれていました。
町の行政は公とともに市民も入った「民会」とい組織で運営して、公も民会の
意向を無視すれば追放されました。民主的運営である。
ロシアは皇帝による専制政治、共産党書記長による独裁など、権威主義的なイメージが強い。
日本にとってもシベリア抑留、北方領土問題など悪感情が一部に残っていますが、
それは必ずしもこの民族の本質ではないんでしょう。
国家と呼べるようなロシア史の始まりは、9世紀にないってからなんです。
北方から侵入してきたルーシ族(ノルマン系民族)が建国した「キエフ」に始まります。
ロシア最古の年代記 「過ぎし年月の物語」 によると、東スラブ諸民族は互いに
競い合う無秩序な世界でした。862年に「海の向こうのヴァリャーギのルーシ」に
使者を送り、統治を頼んだともいわれています。このため、スカンジナビア半島方面
からリューリック以下3兄弟がやってきて862年ごろ、882年にリューリック一族の
子孫がドニエプリ川中流に「キエフ大公国」を建国したという伝説があったんです。
キエフ大公国は領土を拡大しつつキリスト教を導入、1037年には聖ソフィア大聖堂
を建立するなど発展しましたが、1243年にモンゴル族に征服されました。
15世紀に入ってモスクワ大公国のイヴァン3世がモンゴル勢から独立、ピュートル大帝
(1682~1725年)が近代化を進めて、ロシア帝国を名乗るんです。
やがて、農業改革の失敗・食糧価格の高騰・暴動まどを契機に、1917年の3月革命で
ニコライ2世の帝政ロシアは幕を閉じます。
ウクライナもさまざまな国の支配下に置かれてきましたが、1991年のソビエト連邦
崩壊で独立。当時、ロシアはNATO(北大西洋条約機構)に入らないことを独立の条件にしていました。
ウクライナは2014年のマイダン革命で、大統領ヤヌコビッチを追放して親欧米政権となりましたが、ロシアは武力をもってクリミア半島を編入しました。
さらにウクライナ東部の親ロシア勢力を支持して、今回の戦争を迎えることになっています。
ただ、この国には一つの習慣があります。- 手にタコのできているひとは、食卓に
つく資格があるが、手にタコのないものは、人の残りものを食わなければなららい。
トルストイの 「イワンのばか」 の最後の部分です。平等に働き、平等に分け合う
社会主義の理想の姿を、平和と労働を尊び清貧に暮らすイワンに投影させた創作民話。
狡知(こうち)な兄たちは軍人と資本主義の見本として書かれていて、イワンは
ロシア人の底抜けの善良さと大きさを映してきました。
かつてのようにおおらかなロシアを願いたい。