平家滅亡
今日は日曜日、ゆっくりくつろいでいます。
NHK大河ドラマも見るのが楽しみですが。
鎌倉殿の13人もいよいよ佳境にはいってきました。内部争いが頻繁に起こって
ついに畠山氏までも追い詰められようとしています。畠山氏はかつて平家に携わって着ましたが、平家があっさりと滅亡して、拍子抜けした視聴者も多かったのではないでしょうか。
ところで、平家にあらずんば人にあらず、とまで権勢を振るった平家の権力の源泉は
どこにあったのでしょうか。それは武力ではなくて、経済力にあったんですよ。
学校の教科書にも、日宋貿易で巨万の富を得た、と書いてあります。正確には南宋が
貿易相手国。もともと日宋貿易は博多を拠点とする宋商人が牛耳っていました。
そこに深く関与したのが平清盛の父・忠盛でした。忠盛は豊かな地方の国司を歴任して
得た財力で、宋商人と密貿易を始めました。輸入品(唐物)の買い手は朝廷でしたが、
あまりにも金払いが悪かったので宋商人にも都合がよかったんです。
清盛の時代になると、福原(神戸)の大和田泊に日本初の人工港、経が島を造営して、
瀬戸内海航路を整備。ニンポーからやってきた宋船を経が島に直行させることで、マージンを中抜きしていた博多の宋商人を排除して、日宋貿易を完全に独占。
また、平家は通貨発行権をも独占しました。日宋貿易で大量に輸入した宋銭を普及させました。
当時は、奈良時代の和銅開珎が忘れさられ、絹による物々交換が決済の手段でした。
平家が持ち込んだ宋銭は朝廷の許可を得ていませんでしたが、取引の便利だあったため
貨幣経済が一気に進み、商業が大いに発展しました。ただし、宋銭は輸入に頼っていた
ため、通貨の需要増大に対して供給が追いつかず、通貨の価値が高騰しました。
逆に絹や米などモノの価値が低下して、デフレ経済に陥ってしまったんです。
通貨で経済を支配した平家の力はますます強くなって、これに対して、生産物を安く
買い叩かれた平安貴族などの荘園領主や、一所懸命に領地にしがみつく坂東武者は
不満を募らせていったんですね。
治承4年(1180年)の以仁王(もちひとおう)の乱もこれが原因でしょう。
ところが、ここで大きな逆転現象がおこるんです。
そのころ地球は寒冷化へと向かっていて、日本でも度々転変地異に見舞われ、
以仁王の乱の翌年には養和の大飢饉が発生しました。するとこれまでとは逆に
米の凶作で米価が暴騰して極端なインフレになってしまったんです。
これによって通貨に頼りきっていた平家の財力は急速に弱体化して、源平合戦の
動員兵力数にも影響したんですね。これが平家の滅亡につながったといっても過言ではありません。
平家は、通貨を自国で銭造するのではなく、南宋から輸入していました。宋船は季節風
に乗って年に1回、夏の終わりから秋ごろにしか来航しなかったので、現代のように
柔軟な貨幣供給量の調節は難しく、急激な経済の変動に対処できなかったんですね。
ちなみに、源平合戦を現代風に例えるなら、平家の巨大流通小売チェーンに対抗すべく、源頼朝が理事長になって烏合の衆だった生産者を融合して、農業協同組合連合会を
結成したといったところでしょうか。カリスマ指導者の頼朝亡き後、バラバラになるのは明白です。