偶然の歴史
今日、BS4チャンネルで歌謡プレミアムという番組を偶然見ました。
ヒデとロザンナならぬタカ&ロザンナで出ていました。ヒデとロザンナを見ていると
大学生だった頃、東京の高円寺に近いところに下宿していましが、高円寺は音楽の町として知られていました。
1960年代は高円寺という地名はそれほど知れれていませんでした。しかし、70年代中には、地方から上京する若者が住みたいと思う町になっていきました。
1972年に発売された吉田拓郎のアルバム、元気です。 に収録された 高円寺 という曲がきっかけなんですね。
君はどこに住んでいたのですか。高円寺じゃないよね、というあの歌詞。
ねじめ正一の小説 高円寺純情商店街、が直木賞を受賞した1989年でしたが、その時、すでに高円寺は全国区でした。
高円寺にはロック喫茶 ムーヴィン、もありましたし。大瀧詠一と山下達郎が出会った
店としても知られているとおり。この店でかかっていた山下達郎たちの自主制作版レコードをココナッツ・バンクの伊藤銀次が大瀧詠一に紹介した縁で、シュガー・ベイブの
レコードデビューにつながりました。文化放送で南こうせつが作詞家の喜多條忠と偶然
出会ったことで、名曲「神田川」が生まれたというエピソードも有名ですね。
ラジオの放送作家を始めたばかりの喜多條忠が局で台本を書いていたとき、
こうせつがいきなり声をかけて歌詞を依頼。締め切りは、その日のうちに ということで、急ぎタクシーで帰る。途中の神田川を渡った瞬間に歌詞が浮かんだという。
こうせつも喜多條の詩を読んだ直後に曲が浮かんで、5分で作曲しました。
上條恒彦と六文銭の、出発の歌、は第2回世界歌謡祭参加を選ぶ合歓ポピュラー・
フェスティバルでグランプリを受賞した曲。プロテストソング中心のフォークが、
ニューミュージックへと変わっていく分岐点となったヒット曲もあります。
この歌の誕生にも2つの偶然が重なりました。フェスティバルに参加する上條恒彦
のために1曲書くと約束していた小室等が1曲しかできなかったために、合同で
エントリーしたという偶然。歌詞は別の人の予定でしたが間に合わず、急きょ
グループの及川恒平が代理で書いた偶然。
出会いの偶然が歴史を作ってきたといえば、大げさでしょうか。
それでもその偶然がなければ、この世にないものもあったでしょう。
ニュートンはリンゴの木からリンゴが落ちるのを見て、万有引力を思いついた。
これもケンブリッジ大学で雑用に追いまくられていたニュートンが、ペストの流行で
ロンドンを離れることになって、帰郷した実家でようやく自分の研究ができるようになったからという説があります。
ペストの流行や、庭仕事がなければ研究の成果は得られなかったのでしょうか。
西軍の石田三成にもう少し人望があったら、といった たられば話も枚挙にいとまがない。
偶然に偶然が重なって、良くも悪くも今の時代に至ったんです。