長いときの流れのなかの一瞬
昨年、唐招提寺の鑑真和上像(国宝)が東京で公開されました。
たくさんの名宝が並ぶ中で、鑑真和上はリアルにそこにおいで
になるような存在感がる。
この鑑真和上の像は、8世紀に度重なる苦難に失明しながらも
不屈の精神で唐の国から荒波を超えて日本に渡海し、戒律を
伝えてくれた、とされている和上の生前のお姿を彷彿させる
ものだった。芸術作品が人間に与える影響力の大きさを実感
村上春樹が、読者からのメールの質問に答えたものが文庫本に
なっている。
「なにかお金の使い方に哲学はお持ちですか」に
「僕の現在の唯一の贅沢は、絵画を買うことです。
絵画を買うということは、それを保管することでもあります。
言うなれば一時的に預かっているようなものです。
生きている間はそれを好きなだけ眺めて過ごすこともできます
しね」と。
つまり、彼は「絵画を買う」=「一時的に預かる」なのである。
齋藤了英氏が、自分が死んだら「ゴッホの”医師がシェの肖像”と
ルノワールの”ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会”は自分の
棺おけに入れて焼いてくれ」と言った事が伝えられている。
相続税が大変だから、という理由らしい。
この発言は勿論世間で批判された。とんでもない発言であることは間違いないが、所有権というものの議論に一石を投じたことも
間違いない。芸術品は仮に誰かの所有物になっていたとしても、
その所有権は、それを「一時的に預かっているもの」と思うべきである。
たとえば、街の建物には必ず所有権者がいる。そのもち主は
私だったり、大家さんだったり、役所だったりする。
しかし、おしゃれな住宅街、ハイセンスな商店街、情緒たっぷり
な下町、など街のたたずまいは一体誰者もの。
民法では「所有権は物を全面的に支配する物件である」と規定
しているが、世の中の多くのものについて、
所有権とは「過去」から「未来」に向けての時間の流れの中で
そのものを「一時的に預かってる人」と考えるほうがしっくりする。
しかも、もとの水にあらず」にあるように、
私たちは長いときの流れのなかの一瞬を生きているのだから。