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フランケンシュタインの誘惑を見た 「マンハッタン計画」について

フランケンシュタインの誘惑「原爆誕生 科学者たちの罪と罰

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こんにちは、

NHKでフランケンシュタインの誘惑という番組を見ました。

爆誕生についての科学者の罪と罰についてです。

まもなく、広島と長崎に原子爆弾が投下された日を迎えます。

なぜ、科学者たちは、日本に原子爆弾を投下したのでしょうか。

実は、ロスアラモス研究所にいる多くの科学者は投下反対していました。だだ、唯一ロバート・オッペンハイマーだけが強く投下押したのです。あの、アインシュタインも原爆開発にサインしましたが投下には反対でした。

本当は、無人島にデモンストレーションとして原爆の脅威を知らしめるだけだだったのに。

一部の人間による謝った判断が悲惨な現実を作り出しました。

やはり、人間は欲望と、競争原理に生きる動物なのでしょうか?

科学というのは、人間に幸せをもたらすものなのか、はたまた悪夢を実現させる者なのか考えさせられました。

力は、神。とうい醜い人間心理と欲望、やはり、生物学者が言っている人類は2000年後には滅びてしまうのは間違いなさそうです。

 

歴史は繰り返される。「マンハッタン計画

 

 第2次世界大戦中に行われたアメリカの原子爆弾製造計画の暗号名。 A.アインシュタインから F.ルーズベルト大統領にあてた 1939年8月2日付の勧告書がきっかけとなり,原爆製造をドイツより先んずるため,同年最初の政府機構であるウラン諮問委員会ができ,40年からアメリカとイギリスの間に研究情報の交換が始った。原爆計画担当となった政府の科学研究開発局は 41年 12月に同計画を本格的に拡充,強化することを決定,42年8月陸軍工兵団のなかに原爆製造担当の「マンハッタン管区」という暗号名の部門を設置,L.グローブス大佐が最高責任者に選ばれた。科学研究開発局と陸軍との共同管理は 43年5月に終り,その後は陸軍のマンハッタン管区が管理した。 42年 12月2日シカゴ大学の「冶金研究所」 (暗号名) は原子核分裂の連鎖反応実験に成功,原爆を完成する研究,製造はニューメキシコ州ロスアラモス原子力研究所 (1943年春設立,所長 J.オッペンハイマー) で行われ,45年7月 16日ニューメキシコ州アラモゴードで史上最初の原爆実験に成功した (プルトニウム 239を使用) 。マンハッタン管区は戦後の 46年末に廃止され,その任務は 47年1月にできた原子力委員会に引継がれた。

 

人類史上最悪兵器「水爆」

科学史に埋もれた闇の事件セレクション!原爆を生んだ巨大プロジェクト“マンハッタン計画”の科学者たち。「ナチスに先を越されてはならない」とアインシュタインが手紙を書いて始まった開発は、ドイツ降伏後も続いた。

広島・長崎への原爆投下は、なぜ止められなかったのか?

科学者たちを率いた「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーを中心に、貴重な証言を交え、核兵器開発に携わった科学者たちの「罪と罰

 

人類に功も罪ももたらす「科学」。人類史上最悪兵器「水爆」の父、エドワード・テラー。原爆を生み出した「マンハッタン計画」の科学者たちの多くが後悔の念を抱いて晩年を送ったのに対し、ひとりテラーは水爆の「無限の破壊力を実現する」欲望に突き進む。邪魔する者には容赦なく、かつての仲間さえ裏切った。水爆完成後も更なる大量破壊兵器開発に生涯をささげた、狂気の天才物理学者。

愚か者よ。

 

■原子の灯

1938年クリスマスも近いある日、ドイツの小さな実験室で原子物理学の実験が行われた。

この実験は後世、地球と人類を破滅の縁にまで追い込むことになる。化学者オットー ハーンは、ウランの原子核中性子を衝突させ、割れるはずのない原子核を分裂させたのである。これが「核分裂」だと最初に気づいたのは女流物理学者リーゼ・マイトナーだった。 著名な物理学者フェルミは、この核分裂を連続的におこせば、莫大なエネルギーが取り出せるかもしれないと考えた。核分裂のさいに、2、3個の中性子が放出され、それが隣のウラン原子核に衝突し、次々と核分裂を起こす。核分裂の回数が多いほど放出するエネルギーも大きいので、「核分裂の連鎖 → 莫大なエネルギーが放出」 と考えたのである。

1942年12月2日、フェルミらは、シカゴ大学の粗末な原子炉で、核分裂を連鎖的におこすことに成功する。歴史上初めて、原子の灯がともったのである。このささやかな実験が、広島と長崎に投下された原子爆弾の起源となった。地球人類の忌まわしい未来が、歴史年表に刻まれた日である。 一方、ハンガリー人の学者レオ シラードも、オットー ハーンの実験から、核分裂原子爆弾につながることを予見した。もし、ドイツが原子爆弾の製造に成功すれば、世界は破滅する。そこで、世界的な科学者アインシュタイン博士の名をかりて、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトに、原子爆弾の開発を進言したのである。しかし、ルーズベルトはすぐに行動をおこさなかった。話があまりにも突飛で、信じられなかったのである。しかし、原子爆弾は徐々に現実味をおびてくる。

マンハッタン計画

1942年6月、ルーズベルト大統領はある国家プロジェクトを発足させる。目的は原子爆弾の製造で、コードネームはマンハッタン計画命名された。原子爆弾の標的は、当初ドイツだったが、完成する前にドイツが降伏したので、原子爆弾は広島と長崎に投下されることになる。 マンハッタン計画の総責任者には、レズリー グローヴス准将が任命された。また、研究施設はニューメキシコ州のロスアラモスにおかれ、第一級の研究者が集められた。マンハッタン計画は、おそらく、歴史上最大の科学プロジェクトの一つである。わずか、数年間でこれだけのヒト モノ カネを投下したプロジェクトは前例がない。これに匹敵するのは、第二次世界大戦中のドイツのV2ロケット計画ぐらいだろう。

マンハッタン計画は、3年間で、5万人の科学者と技術者が投入され、20億ドルの資金を使い切った。20億ドルは、現在の貨幣価値で2兆円、当時の日本の一般会計の約35倍である。結果論にすぎないが、日本はアメリカに勝つ見込みなどなかったのである。 マンハッタン計画で製造された原子爆弾は、広島と長崎に投下された2つ。つまり、1発1兆円の爆弾だった。さらに、広島と長崎が受けた損害、失われた35万名の人命を考えると、人類が被った被害は計り知れない。やられる前にやる、味方の損害を減らすため ・・・ どれほど正当化しようが、やったことはやったこと。原子爆弾を広島と長崎に投下した行為は歴史上まれにみる悪なのだ。

一方、このプロジェクトは量のみならず質も破格だった。ノーベル賞受賞者フェルミをはじめ、のちにノイマン型コンピュータを提唱するジョン フォン ノイマン、天才とうたわれた若き日のリチャード ファインマンもいた。ファインマンは後に、日本の朝永振一郎博士とともに、ノーベル物理学賞を受賞している。また優れた教育者でもあり、量子力学の素晴らしい教科書を残している。 このようにきら星のごとき科学者集団の頂点に立ったのがオッペンハイマーだった。彼は原子爆弾の父として輝かしい栄光の後、奈落の果てに落ちていく。じつに数奇な運命である。

■われは死神なり、世界の破壊者なり

オッペンハイマーユダヤ人であった。移民の子としてニューヨークに生まれ、幼年期より特別の才能を現した飛び級ハーバード大学に入学、25才でカルフォルニア大学の物理学の助教授、32才で教授になっている。 専門は化学と物理だったが、語学の才能も並はずれており、様々な文学を原書で読んだといわれる。のちに、原子爆弾の開発者である自分自身を、 「われは死神なり、世界の破壊者なり」 となぞらえたが、これはヒンズー教の教典「バガヴァッド ギーター(神の歌)」から引用されている。

バガヴァッド ギーターは、世界最大の叙事詩マハーバーラタ」の中で、クリシュナ神が武人のとるべき態度を説いた部分で、ヒンズー教の最高の教典とされている。また、「マハーバーラタ」には古代核戦争と思われるリアルな描写があり、オッペンハイマーのこの引用は、おろらく、ここから来ている。いずれにせよ、オッペンハイマー天才の世界の住人であったことは間違いない。

オッペンハイマーは元々、宇宙のブラックホールの研究者だった。恒星は燃え尽きると、重い中性子の塊になる。その結果、1辺1cmのサイコロサイズで10億トンという想像を絶する密度になる。そのような状況で、質量が太陽の3倍を超える恒星は、中性子星という形態も維持できず、ブラックホールと化す。オッペンハイマーはこのブラックホールの先駆者であった。 原子爆弾製造のマンハッタン計画さえなければ、オッペンハイマー天文学や物理学で大きな功績を上げ、幸福な学者人生を歩んでいたかもしれない。だが、歴史の神は彼をプロメテウスに仕立てたのである。プロメテウスは人間に火を与えたため、永遠にハゲタカに内蔵をついばまれる罰をうけた。

そして、オッペンハイマーも同じような運命が待っていた。 1945年7月17日、オッペンハイマーは、ついに核爆発の実験に成功する。さらにその後、原子爆弾を2個完成させたが、その1つは広島に投下されたリトルボーイ、もう1つは長崎に投下されたファットマンであった。原子爆弾の実験結果に対し、彼は非常に満足そうだったという。ところが、原子爆弾が広島と長崎に投下され、その惨状を知った後は、心境が微妙に変化していく。やがて、原子爆弾開発に否定的になり、ロスアラモス研究所を追い出され、一切の公職を追われたのである。 原子爆弾が投下された広島と長崎の映像を見れば、オッペンハイマーの心境もよく理解できる。

昔、物理の世界にいる先輩からオッペンハイマーにまつわる話を聞いたことがある。オッペンハイマーは戦後、湯川秀樹博士をはじめ、日本の学者がアメリカで研究できるよう尽力したという。そして、実年齢より、はるかに老けて見えたという。日本への、何かしらの思いがあったのだろうか。急速に老け込むほどの苦悩があったのだろうか。 オッペンハイマーは自らが開発した原子爆弾の廃絶を訴えながら、この世を去った。オッペンハイマーはプロメテウスになることを望んだわけでなかった。天から与えられたのである。だが結局、それを受けた自分を呪うことになる。 「われは死神なり、世界の破壊者なり」

マンハッタン計画

戦争に兵器開発はつきものだし、実際、第二次世界大戦中には、様々な兵器が開発された。だが、マンハッタン計画は本当に必要だったのだろうか?この計画は当初、大義名分があった。ドイツが先んじて原子爆弾を開発すれば、連合国側が受ける損害は計り知れない。地球規模の破壊をもたらす可能性もあった。結局、被害を受けたのは広島、長崎だけだったのだが。 マンハッタン計画がいかに特殊なプロジェクトであったか?それを証明する事実もある。技術の開発の現場では、方法がいくつか考えられると、それぞれの方法を吟味し、見込みのある方法に、ヒト・モノ・カネを集中投下する。

ところが、マンハッタン計画では、見込みのなさそうな方法も、並行して実行された。ヒト・モノ・カネに糸目をつけなかったのである。 だが、結論からいくと、アメリカはあわてる必要はなかった。連合国軍がドイツに進軍し、原子爆弾開発の状況を調査をしたところ、ドイツは原子爆弾を完成させる見込みなどなかったのだ。当時、原子爆弾の製造はそれほど難しかった。原料のウラン鉱石を入手することも大変だが、爆発に必要な量のウランを抽出し、濃縮することはさらに困難であった。莫大な電力を必要とし、そのための発電所も必要だったからである。

実際、日本でも原子爆弾の製造計画はあったが、早々に断念されている。その時、日本の科学者たちはこう説明した。 「原子爆弾の製造は極めて困難で、したがって米国でも製造は無理である」 ところが、その無理が現実となったのである。

原子爆弾 投下

1945年8月6日、広島上空で原子爆弾が投下された。人類は、ついに原子兵器を使用したのである。瞬時に6万6000人が死亡し、市の60%が崩壊、最終的に、20万人が死亡した。そしてつづく8月9日、長崎にも原子爆弾が投下され、市の人口の3分の2が死傷した。 大学時代、同じ下宿に広島出身の後輩がいた。彼は、毎年この日が近づくと同じ夢をみるのだと言う。8月6日早朝、彼は広島の町に立っている。もうすぐ、原子爆弾が投下されることを知っている彼は、町中を大声で叫びながら走り回る。

原子爆弾が落ちる、逃げろ、逃げろ

必死で叫ぶのに、不思議と声が出ず、誰も気づいてくれない。やがて、真っ白な閃光が天空をおおい、夢は終わる。彼はこの原子爆弾でほとんどの親戚を失っている。毎年、8月6日が来るたびに、この後輩を思い出すのである

 

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