テレビ東京で日本に行きたい人応援団という番組を見て、「時の記念日」を思い出した
こんばんは。
今日、テレビ東京で日本に行きたい人応援団という番組を見ました。
その中で、カラクリ人形にはまったカナダ人のことをやっていました。
とても、面白くて次回も見たいと思いますね。
ところで、先月10日、通算100回目となる 「時の記念日」を迎えました。
天智天皇が日本で初めて漏刻(ろうこく)という水時計を動かしたとされる日に由来しています。
今から100年前の1920年(大正9年)、文部省社会局の生活改善同盟会は、当時湯島聖堂構内にあった東京教育博物館で
「時の展覧会」を開催しました。
会期中、国民の合理的な生活を推進し、国益をさらに高める政策の一環として 「時の記念日」 が制定されたんですね。
”からくり儀右衛門” として有名な田中久史重の万年自鳴鐘(じめいしょう)や江戸時代の天文学者・渋川春海の天球儀が出品されました。
また、女性が一生で化粧に費やす時間を解説したパネルなど、国民生活に密着した展示も行なわれました。
銀座、日本橋、上野では、女学生を動員して 「時間を尊重し定時を履行」するための条文が記載されたビラが配られました。
このキャンペーンは、時間にルーズな日本人の時間意識を改革する官主導の啓蒙活動で、日本の国力を増強させるには労働者や学生に ”遅刻” という概念を植え付け、欧米並みの時間意識に向上させるこたが急務でした。
当時は、従業員が定時に出社できなくても一時間を超えなければ遅刻扱いにならなかったりするなど、結構いい加減なものでした。
それもそのはず。 1872年(明治5年)の改暦で時刻制度が現在のような定時法に改まった後も、江戸時代の不定時法の時間感覚が抜けきれていなかったんですね。
不定時法では、一日を夜明けと日暮れを基準に昼と夜を二分して、
それぞれ6等分したものを一刻としていたんです。日の出入りを基準とするため一刻の長さは昼と夜で異なる上に、季節によって変化し、夏至になると昼の一刻が夜の2倍となっていました。
また、時刻の数え方は 「明け六つ」 のように数字で表す延喜式(えんぎしき)と 「丑三つ時」 など十二支で表す十二辰刻があって、分や秒のように細分化されていませんでした。
当時の日本人の時間概念は 「日が昇ったら昼、日が暮れたら夜」 という単純明快なもので、現代のように機械式の均等な絶対時間を使わず、太陽の動きに身をまかせて、自然のリズムに合わせて生活していました。
日本一国だけで平和に鎖国し続けるのであればこれでも特に不都合はなくて、農耕に限ってはむしろ合理的でさえありました。
しかし、弱肉強食の国際社会のなかで列強とくみしていくためには、欧米並みの時刻制度の徹底が不可欠だったんです。
今の世の中、毎日が何かの記念日で溢れているんですが、
「時の記念日」 こそ現代の時間に正確な近代日本を生み出した特別な記念日といえるのではないでしょうか。
この100年前の一大啓蒙キャンペーンは発端となって、外国人も驚く正確な鉄道運行や、納期や支払期日を厳守する企業精神が育まれえたのです。
でもやっぱり、日本人の気質から生まれたものできっと 「時の記念日」がなくてもきっちりした、時間を守ることを行なっていたでしょう。