リョウガのページ

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読書のススメ 読み方

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活字本を年間3冊読むか読まないかという友人がIT業界の巨頭に関するベストセラーを片手に「寝る前に数ページ読んだら睡魔に襲われる」と話す。どうして読書習慣がないのにこの本を買ったのかと尋ねると、IT業界の最先端の動きを知ることで少しは仕事に役立つ面があると考えたという。せっかく読書習慣のない人間が読むのだ、もう少し面白い本を読んだらどうだと言うと、どんな本が面白いのか?と尋ねられたので、「小説に決まっている」と答えたところ、「小説ってフィクションでしょ?そんなの読んでも生きる上で何の役にも立たない」と思わぬ反論をうけた。なるほど、このような視点で活字本と対峙しているわけか。まさに教科書を読むような感覚だろう。

本を読む理由は面白いからにほかならない。就寝前に読み始めた小説のページをめくる手が止まらなくなり夜更かししてしまうことは日常茶飯事である。そこに”生きる上で役立つこと”なんて高尚なことは考えていない。それでも司馬遼太郎を読んだことをきっかけに史跡を廻りもしたし、アート小説の名手である原田ハマを読んで作品に出てきた美術商品に触れたりもした。それが”生きる上で役立つ”とまでは言わないが、少なくとも人生をより楽しむためのスパイスにはなっている。

”生きる上で役に立つ”かもしれない実用書や教養本の類を手に取ることもある。この手の本は、筆者の専門的知識が高いゆえに難解な内容なものや、筆者の自己満足が強く出過ぎたものも多く、途中で挫折することもしばしばある。それでも、読破後に、ほんの
少しだけ賢くなったような思いに至るときもある。

しかし、現実的には読んだだけでは血肉になっていない。その証として、この類の本を一年後に改めて読み直すと内容をほとんど覚えていない。特に「学ぼう」と構えて読んだ本ほど覚えていない。単に読書を楽しめていないからだろう。

それでも読書内容が図からずも血肉になるときがある。読書内容の一部に感銘を受け、そのことを何人かに口で伝えた時だ。内容を伝えるために、内容を思い起こす、時には一部を読み直す、そして自分の頭の中でもう一度整理する。この能動的な思考行動に血肉となるのだ。

仕事も同じだ。指図を受けるままに与えられた業務を受動的に取り組んでいても成長できない。能動的に取り組んでこそ、血肉になる。