人と比べても
人の失敗や不幸は蜜の味。
人の成功はねたもの種。
人間は実につまらないことばかりを考えている。
人の失敗、不幸、転落を心の中でついつい喜んでしまう。
人の成功、幸福、出世を妬んだりする。
出来ることなら、人の不幸等を見聞きしたら一緒に悲しみ、人の成功は我がことのように喜びを分かち合いたいも。
しかし、そうはならない。
なぜ、こんなことを考えるのか。
それは自分と比べようとしているから。そして、それは何の意味もないことなのです。
例えば、スポーツにおいてライバルが金メダルを獲得して、自分はさんざんたる成績に終わってしまった。ここでライバルに対して嫉妬しても何の意味もない。
この結果は練習の成果そのものである。ライバルの練習量が自分を上回っていただけのこと。
では、どうすればいいのか、次の機会に備えてライバルよりも練習をすること以外にない。
例えば、ずっと昔に同級生だった仲間が大成功をおさめたとする。でも、その相手は今の自分とは全く違う世界のいるのだから、利害関係は何もない。
相手が成功しようが失敗しようが、自分には何ら影響などない。にもかかわらず、嫉妬の感情が先に来たとしたら困ったものである。
具体的なケースで説明しよう。
もしも相手が歌の世界で成功したとしよう。一見とても華やかで、いい暮らしぶりだと聞く。でも、流行り廃りの激しい業界だ。彼らは常に、いち人気がなくなるのかという恐怖を胸に抱えている。そんな不安で眠れない日も多い。
あるいは、相手が起業して成功者になったとしよう。
こちらも激しい競争の波にもまれ続ける。業績が落ち込むと、さあ大変。資金繰りに悩んで眠れない日々に。
あるいは、相手が親の跡をついで政治家になったとしよう。こちらも一寸先は闇。ドロドロとした足の引っ張り合いの世界であるし、しょせん政治家など選挙に落ちたらタダの人だ。
さて、これでも羨ましいと思えるだろうか。
ある寺の住職の言葉だが、人と比べることでしか自分の立ち位置が分からないような人は、何を見聞きしてもねたむか傲漫になるかのいずれかだ。
それはねたみと傲慢の間を揺れ動いている振り子のようなもの。
「いけない、また比べている」と気づかなければ振り子は止まらないし、気付いたら振り子は止まる。
そして、人と自分を比べるなど、自分はなんてつまらない人間なんだろうと思うようになるはず。
その時、自分を人と比べることが何の意味もなさないことがハッキリとわかる。