前回の知将・野村氏のお話の続き
前回の知将・野村氏のお話の続き。
知将・野村氏が残した功績は数知れないですね。
今でも ”遠山・葛西・遠山・葛西” と語り草になっているのは、阪神監督時代に放った奇策です。遠山と葛西の2投手のワンポイントリリーフを繰り返す戦略。皆さんも覚えておられるでしょう。一方が投げる間、片方は一塁を守り、計4名の相手打者を抑えるという、見たことも無い面白いシーンでした。遠山投手が特定の左打者にめっぽう強かったため、こういう戦略となったんです。
特に巨人の4番打者との相性が抜群だった。データ重視のID野球がいかんなく発揮された場面でした。実は遠山投手も野村監督の存在抜きには輝くことはなかったんです。
もともと阪神に入団したが怪我のためトレードに出されて一時は打者に転向するも戦力外に。阪神に再度テスト入団、野村氏のアドバイスでサイドスローに変更したことで生まれ変わり、ワンポイントリリーフという活躍の場を得たのでした。
それも以前にもワンポイントリリーフ投手は存在していましたが、この野村戦術ワンポイントリリーフがプロ野球で脚光を浴びて多用されるきっかけとなったんです。
投手の分業制を確立したのも野村氏。
それは古い話で、1970年代のこと。他のチームから南海ホークスに移籍してきた豪腕エース投手がいたが、不調続きだ。
そこで彼に抑え役への転向を勧めようとする。だが、投手(江夏)は先発完投するのが当たり前の時代で、プライド高いエース投手は簡単には首をタテに振らない。
そこで野村監督は「野球界に革命を起こそう」と持ちかけたんです。
こうしてエース投手は抑え役として生まれ変わって、目覚しい活躍を見せたんですね。野村革命は見事に成就したんでした。
現在、どれほど多くの投手がワンポイントや抑え役として生まれ変わり居場所を得て輝いているか。やや力の衰えた先発完投型投手が、ワンポイントリリーフで出てきたら、好きでないチームであっても応援したくなる。なお、今では常識となっている投手のクイックモーションを考案したのも南海監督時代の野村氏。当時、きりきり舞いさせられていた盗塁のスペシャリスト(阪急ブレーブス・福本)を押さえ込む作戦としてだったんです。
ところで、ワンポイントリリーフの戦術を、大リーグが禁止するんです。禁止する理由は、試合時間短縮のため。なんでもかんでも大リーグに右にならえの日本です。指名打者制しかり。でも指名打者制はプロ野球をつまらなくしました。これをパリーグが採用したことで、投手はピッチングに専念することができるので、投手のレベルは向上しました。そのような投手と毎日対戦することで打者のレベルも向上していったんです。
その結果、セパ交流戦や日本シリーズではパリーグが圧倒的な強さを発揮するようになったわけです。対戦する前から興味半減しました。ワンポイントリリーフも大リーグに追随して禁止するかもしれない。
野村氏は天国でぼやいているでしょう。
「アホか、もっと別の方法で短縮を図れ。これ以上野球をつまらなくするな」って・・・・。