リョウガのページ

小さな嬉しいことを発見する、今話題のことを思う

梅雨時の心構え

今日は、梅雨の晴れ間、とても暑くて梅雨明けしたかのようでした。

 

暑いの嫌がけど、梅雨のじめじめも嫌ですね。

 

これだけ暑いと、梅雨が恋しくなってくるかも。

 

梅雨は、中国から伝わった言葉なんですね。もともと雨が多くて、カビが生えやすい

 

時期で 「黴雨(ばいう)」と呼ばれていたんですが、語感が良くないということで

 

「黴」ではなく 「梅」になったんです。そして6月下旬に収穫期を迎える梅が熟して

 

潰れることから「潰ゆ(つゆ)」が「梅雨(つゆ)」になったとされています。

 

しばらく鬱陶しい雨の日が続く。しかし紫陽花は雨に濡れてこそ色に艷がでるといわれて、雨の季節も趣があります。

 

雨は染織の図柄にも描かれますが、「雨の図柄は燕が飛んでいたり、柳の芽吹きの枝が

 

主題で雨は添える程度、とエッセイに記しているように、雨そのものの図解はとっても

 

難しい。これを描くとなるとどんな形になるのか。斜めの細い線などが考えられますが

 

雨粒はどんな形なのか。絵本などで見るように、雨は先の尖った涙形で落ちて来ている

 

と思いがち。ところが雨を写真撮影すると、その形は直径2ミリ以下だと球に近く、

 

それ以上だと平たくなって、饅頭のような形だそうです。なんとなく思い込んでいる形

とは実際は違っています。世の中には思い込みから本当の形が見えていないこともよくあります。

 

雨の日は外出するのも億劫になって、小売りやサービス業などにとっては、客足が

 

遠のきがちです。しかし雨の形の思い込みのように、実際は違っていたりすることもあります。

梅雨の長雨の時期ですが、集客イベントにつながりそうな話題も少なくありません。

 

6月は環境月間、環境やエコをテーマにした提案を取り入れています。また本格的な

 

夏物への衣替えのシーズンでもあって、メンテナンスなど役立つ情報を提案します。

 

先日の父の日もしうでしたが、夏のお中元を検討する時期にあるなどギフト商戦への

 

取り組みもあります。

 

とはいえ、梅雨時はじめじめした天候が続いて、体調を崩しやすく、仕事の能率も

 

下がりがちで、気象病という言葉もあるぐらいです。しかし、それも思い込みが多くて、

気象病は職場の快適な環境づくりを心がけることで改善できるといいます。

 

労働安全衛生法では、作業の態様、季節時に応じて湿度、温度などの温熱条件を適切

 

な常態に保つこと、と企業としての取り組みを促しています。

 

社員の健康とともに、企業にとってのリスクを考えると、トップの健康維持は最重要

課題で、トップが健康経営に興味を持つ会社ほど社員への健康に力を入れる傾向にあって、結果として成果を上げていく。

 

梅雨時こそ社員の健康づくり、まず、隗(かい)よいり始めよ です。

 

十八史略『先従隗始/先づ隗より始めよ』をスタディサプリ講師が ...

 

人に言いつける前に自分が積極的に着手せよ、という意味。 「かい)」は戦国(せんごく)時代の燕(えん)の人で、郭(かくかい)という人

 

石川さゆりさんの装いの美

謡曲でもう一丁。

 

去る5月29日、7522頭の頂点を決める日本ダービー東京競馬場で行われ、

 

ヅウデユースが優勝しました。競馬界のレジェンド、53歳の武豊か騎手が前人未到

 

ダービー6勝目を飾って、盛り上がりを見せました。

 

当日、ダービー発送前のセレモニーに国歌独唱を行った歌手 石川さゆりさんも

 

話題になって、歌声のみならず、着物姿も素晴らしくて、印象深く驚きました。

 

そのきもの姿は、深い緑の無地着物に金じきの帯。深い緑の無地着物は競馬場の

ターフの色に対し、深い緑の着物はいささか地味に映りました。

 

しかし、もしターフのように鮮やかな緑では華美になってしまう。ダービーの主役は

 

あくまでも馬。柄のない色無地で謙遜を表したのでしょうか。

 

金色の帯の模様について、菖蒲じゃないかというツイートが相次いで、菖蒲の柄に

 

勝負(しょうぶ)を引っ掛けているという見方がでていました。でも、しばらくすると

 

燕子花(かきつばた)という意見もあって、その根拠として、尾形光琳(おがたこうりん)の燕子花図の画像と帯を比較する人も現れました。

 

確かに尾形光琳の燕子花図は背景が金色地であって、どうやらこちらをモチーフした

 

帯だとおもわれますね。

 

いずれ あやめか かきつばた、という慣用句がります。アヤメ、カキツバタ、いずれも美しく似ていて区別がつきにくい、優劣がつきにくい、ことを意味します。

 

アヤメを漢字でかくと「菖蒲」。菖蒲(ショウブ)と同じです。ショウブの花としれ知られるのは、アヤメ科のハナショウブで、菖蒲湯に使われるショウブとは別の植物なんです。

 

カキツバタ、アヤメ、ハナショウブの違いは分かりにくいけれど、どれも5月が見ごろの花です。

 

ここに、よく知られる競馬の格言があります。皐月賞は、最も速い馬が勝つ、

 

菊花賞は、最も強い馬が勝つ、これに対して日本ダービーは、最も運のある馬が勝つ、

と言われているんですね。

そして、帯の模様であったカキツバタ花言葉は、幸運は必ず訪れる、と・・・

 

きっと石川さゆりさんはすべて知っていて、この装いを選んだのでしょう。

 

無職地で出走馬を立てて、カキツバタの帯で季節感を出して、競馬界最高峰の勝負への思いを伝えた。

まさしくこれが装いの美意識というものでしょうか。すごい。

 

「馬の走る音、リズムがあって躍動的で心が躍ります。競馬場には初めて参りましたが、あの澄んで優しく、賢さを秘めた瞳と力強く疾走する姿は、本当に美しいと思いました。馬たちの眼差しを見ると、レースに臨み力の限り走るのは、他ならぬ自分たちの意思でありプライドだと思いました。

優勝されたドウデュース武豊騎手、関係者の皆様、おめでとうございます。熱い走りに清々しい気持ちをいただきました。サラブレッドたちは私の歌を聴いてくれたでしょうか」

 



偶然の歴史

今日、BS4チャンネルで歌謡プレミアムという番組を偶然見ました。

 

ヒデとロザンナならぬタカ&ロザンナで出ていました。ヒデとロザンナを見ていると

 

昔の歌謡曲を思い出します。昔の歌謡曲はとても良かった。

 

大学生だった頃、東京の高円寺に近いところに下宿していましが、高円寺は音楽の町として知られていました。

 

1960年代は高円寺という地名はそれほど知れれていませんでした。しかし、70年代中には、地方から上京する若者が住みたいと思う町になっていきました。

 

1972年に発売された吉田拓郎のアルバム、元気です。 に収録された 高円寺 という曲がきっかけなんですね。

 

君はどこに住んでいたのですか。高円寺じゃないよね、というあの歌詞。

 

ねじめ正一の小説 高円寺純情商店街、が直木賞を受賞した1989年でしたが、その時、すでに高円寺は全国区でした。

 

高円寺にはロック喫茶 ムーヴィン、もありましたし。大瀧詠一山下達郎が出会った

 

店としても知られているとおり。この店でかかっていた山下達郎たちの自主制作版レコードをココナッツ・バンクの伊藤銀次大瀧詠一に紹介した縁で、シュガー・ベイブ

 

レコードデビューにつながりました。文化放送南こうせつが作詞家の喜多條忠と偶然

 

出会ったことで、名曲「神田川」が生まれたというエピソードも有名ですね。

 

ラジオの放送作家を始めたばかりの喜多條忠が局で台本を書いていたとき、

 

こうせつがいきなり声をかけて歌詞を依頼。締め切りは、その日のうちに ということで、急ぎタクシーで帰る。途中の神田川を渡った瞬間に歌詞が浮かんだという。

 

こうせつも喜多條の詩を読んだ直後に曲が浮かんで、5分で作曲しました。

 

上條恒彦六文銭の、出発の歌、は第2回世界歌謡祭参加を選ぶ合歓ポピュラー・

フェスティバルでグランプリを受賞した曲。プロテストソング中心のフォークが、

ニューミュージックへと変わっていく分岐点となったヒット曲もあります。

 

この歌の誕生にも2つの偶然が重なりました。フェスティバルに参加する上條恒彦

 

のために1曲書くと約束していた小室等が1曲しかできなかったために、合同で

 

エントリーしたという偶然。歌詞は別の人の予定でしたが間に合わず、急きょ

 

グループの及川恒平が代理で書いた偶然。

 

出会いの偶然が歴史を作ってきたといえば、大げさでしょうか。

 

それでもその偶然がなければ、この世にないものもあったでしょう。

 

ニュートンはリンゴの木からリンゴが落ちるのを見て、万有引力を思いついた。

 

これもケンブリッジ大学で雑用に追いまくられていたニュートンが、ペストの流行で

 

ロンドンを離れることになって、帰郷した実家でようやく自分の研究ができるようになったからという説があります。

 

ペストの流行や、庭仕事がなければ研究の成果は得られなかったのでしょうか。

 

西軍の石田三成にもう少し人望があったら、といった たられば話も枚挙にいとまがない。

偶然に偶然が重なって、良くも悪くも今の時代に至ったんです。

 

万有引力を発見したニュートンが発明した「意外なモノ」/地球の ...

 

 

体制と庶民

今日は、前回の続き。

 

鎌倉時代、中国の南宋時代、そのあと皆さんが好きな戦国時代。

 

歴史ドラマでは、戦国時代がよく取り上げられますね。

 

戦国といえば、激動の時代。従来の社会秩序が解体されて、新しい秩序、

 

体制が形づくられていきます。そこに登場する人物も生き生きとして個性的で

 

個々に大きな夢を抱いていました。信玄、謙信、信長、秀光、秀吉、家康、政宗

 

たちの野望と挫折。下剋上と上剋下。君主と家臣の相克(そうこく)、

 

強運に導かれた立身出世物語は、今の世にもよく通じるようです。その辺りにも

 

戦国ドラマの魅力はえるのでしょう。

 

武家政権の始まりは鎌倉時代。将軍と御家人の関係は「御恩」と「奉公」。

 

御恩があるからこそ御家人は奉公するわけで、無条件に主人に従うという考えはありませんでした。

 

室町時代になって将軍は京都に幕府を移しましたが、細川、山名、畠山、斯波(しば)

 

といった力のある大名は幕府政治に関与していました。重臣である実力派守護代

 

主君の守護大名よりも権勢を強めるといった動きがみられて、応仁の乱、戦国時代へと突入していきます。

 

重臣が主君を襲う下剋上の内乱が地方大会とすれば、トーナメントを繰り返して

 

県大会、全国大会へと試合は進みます。その最終戦が秀吉と家康の東西頂上対決で、

 

ようやく統一権力が形成されていきました。江戸時代以降は統一権力の傘下での生き残りの世に固定化されていきました。

 

何笑う声ぞ夜長の台所(子規)。夜の台所から聞こえるのは、くったくのない女達の笑い声。

東京に母と妹を呼び寄せて、子規は小さな幸せをふとかみしめたのでしょうか。

 

一日は何をしたやら秋の暮れ。今日一日、何をしていたのだろう、と思い浮かべる句は

 

のんびりした様子に見えますが、数年後に脊椎カリエスが発症する子規を思えばそれだけではないでしょうね。

 

死の前日、糸瓜(へちま)咲いて痰のつまりし仏かな、と詠む。糸瓜の水は痰切りの薬効があるといわれていて植えていましたが、それほどの効果はなかったようです。

 

仏とは遺体のことですが、死が近いわが身を冷静に見ています。

 

明治の世、子規という一人の庶民にも近代俳句という夢があって、闘病という戦いがあった。

昭和、平成、令和と元号は変わってきましたが、この間、何がどう変わってきたのでしょうか。

家電製品がより便利に、コンパクトになったのは確かです。鉄道も新幹線からリニアへと速度を上げる。

そうそたモノの変化ではなくて、もっと人間の本質的なものについては、何一つ変わっていないように思えます。

信長の頃でも、太平洋戦争の頃でも、庶民の生活というのはその時代の体制という枠組みの下に組み敷かれてきました。

 

そこで精一杯生きて、やがて死んでいく。その体制もいずれ崩れて、新たな支配体制

へと移り行くのです。

刀剣ワールド】戦国時代の戦国大名

 

 

陰影礼賛(いんえいらいさん)

 

日本人はもともと、暗い家屋の中で暮らしていました。

 

それは現代の暮らしとは、別の豊かさに満たされていました。

 

数百年の時を経て退色し、破損、汚損して製作時と異なる色彩に変化変質した

 

わび、さびなど、謝った理解をしているのでは。当時の文化をデジタルで復元してしているものに対し、誤った理解をしているのでは。

 

主に今絵画などの作品をデジタル復元するメリットは、レプリカが低コストで製作できて、一度復元すればインクジェットプリントで何度でも再生産できること。

 

さらに触ることはもちろん、直接観ることすら叶わはい国法級の作品を、レプリカであれば直ちに触って、リアルな体験ができます。

 

もう一つ美術作品を鑑賞するときのポイントとして、明るく照らされた室内で作品を観るのではなくて、薄暗い室内で自然光またはろうそくの灯りだけで観ることもおすすめ。

風神雷神図屏風は、夕陽を照らすような光度で真横から光を当てることで、背景のトーンが暗くなって風神と雷神が浮き上がって、前に飛び出すように迫力が増します。

 

つまり、薄明かりの中で作品を観ることで想像力を働かせ、膨らませながら鑑賞する

陰影礼賛(いんえいらいさん)があります。

 

陰影礼賛は谷崎潤一郎発表した随筆。

 

急速に近代化が進んでいた昭和のはじめに、電灯がなくて自然光や薄明かりで生活していた頃の美意識について語ったものなんです。

 

同じモノでも、明るいところで見るのと暗がりで見るのとではずいぶん印象が変わります。

一つの見方だけで判断していては本質を見誤ってしまう。これはあらゆる物事にも当てはまるかもしれませんね。

 

和の美 「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」 | 和のすてき 和の心 ...

 

 

文天祥と耶律楚材。

時のたつもの早いもので、今年も1年の半分が過ぎました。

 

いつも、NHKの大河ドラマを巻いているのですが、年末の採最終回まで

 

あと半分弱しかないのは、早すぎて少しさびしい気分。

 

今年の大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」は鎌倉時代と言うこともあって

 

面白いですね。この時代の少し後の時代のことなんですが、13世紀中国

 

南宋最後の宰相で、有名なのが 文天祥(ぶんてんしょう)。

 

忠臣の鑑として、日本の幕末維新の志士たちからも崇拝されていました。

 

そのお話。

 

当時の宋は経済大国で、高い文化を誇っていましたが、軍事力はからっきしで、

 

辺境異民族の遼や金にも負けて華北を失うという体たらく。江南に引きこもって

 

南宋を再興したものの、中華帝国とは名ばかりに落ちぶれていました。

 

そこへ遼や金よりもさらに強大なモンゴル帝国が攻め込んできたからたまらない。

 

南宋は風前の灯火で、どうあがいても負けるに決まっている。すでに丞相(じょうしょう・首相)の買似道(かじどう)は罷免されましたが、誰も後任の丞相(首相)になろうとははしませんでした。

敗軍の丞相になろうとしなかった。そこで敢然と立ち上がったのが文天祥です。

 

主戦派の文天祥はこれまで、対モンゴル強硬論を主張して弱腰な朝廷から疎んじられ、

 

任官と罷免を繰り返していました。

 

丞相を引き受けた天文祥は徹底抗戦を続けたものの、所詮、蟷螂(とうろう)の斧。

 

モンゴル軍に捕らえられ、クビライ・カーンの前に引きずり出されます。その時、

 

文天祥を得難い逸材と見抜いたクビライは、宰相への登用を条件に降伏を迫りました。

 

しかし、文天祥は毅然としてこれを拒絶しました。

 

文天祥がクビライへの返答として送った過零丁洋(零丁洋・れいていようを過ぐ)の

 

詩には、人間は誰でも死ぬ。同じ死ぬのなら忠義を尽くして歴史を照らし,後世の模範となろう、と記されたいました。

たとえ死ぬことが分かっていても、南宋が滅んでも、忠義の志高く、その名声を歴史に

 

残すことさえできれば、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるというものだ。

 

クビライはこれより前に、捕虜となった南宋の将軍たちも簡単に降伏した理由を尋問

していましたが、買似道が我々武官を軽んじたからだ、と恨みごとばかりで、

 

お前たちを軽んじたのは買似道であって宋の皇帝ではない。それなのに皇帝に忠節を

 

尽くさなかった。お前たちが軽んじられたのは当然だ、といきどおっていました。

 

だから尚のこと、文天祥より少し前の時代、遼の王族の子孫でだいだい金に仕えた

 

漢人貴族の耶律楚材(やりつそざい)は、チンギス・カンに重用されてモンゴル帝国

 

宰相として活躍したとされています。実際は漢文担当の行政書記官に過ぎなかったようですが、実務官僚としてモンゴル帝国の中国支配体制に税収による財政制度を導入し、

モンゴルの野蛮な破壊と略奪文化から漢民族を守ることに徹したのは事実だったらしい。

 

最後まで南宋に忠義を尽くし、結果よりも動機の高たかさを重んた文天祥と、

 

無節操と非難されながらもモンゴルに仕え、漢民族救済に尽力して結果を残した

リアリストの耶律楚材。

現代を生きる私たちは同じ立場に立たされたとき、どのように身を処すべきでしょうか。

答えは容易に見出せそうにない。

 

文天祥「正気歌」 : 将門Web

 

 

梅雨入り

ついに梅雨入りです。

関東甲信越が5日、その後九州と平年より1日早く、九州南部より早い入梅は17年ぶりだそうです。

関西はまだですが、明日から雨です。

 

梅雨前線は北側の春の空気と南側の夏の空気の境目にできます。

暖かい空気が冷たい空気層の上にはい上がるのが天気の基本。このため、上空の

前線は地上の前線よりも北に位置して、雨雲は地上の前線よりも300キロほど

北側に発生しやすいといわれています。

 

梅雨は洗濯物が乾きにくくて困る、と ぼやけるうちはいいんです。

30年に1度という異常気象が毎年起こる時代は、梅雨時の雨も異常多雨とならないか

心配になります。

温暖化で気温が上昇すれば空気中の水分量が多くなって、大雨を引き起こすからです。

とくに局地的な大雨はあっという間に水が低地へと流れ込んで、家屋が水浸しになる。

 

国や都道府県が公表している洪水による 浸水想定区域図は、これまで100~200年に1度の大雨を想定したシミュレーションを作ったんですね。

NHKは全国の自治体からこの情報を収集・分析して、何と4700万人、人口約4割の人が浸水域でくらしていると発表しました。

うち1300万人は1階部が水没する土地です。

 

沈下橋(ちんかばし)と呼ばれる橋があります。洪水時に橋面が水面下になる橋をいいます。

高知県四万十川流域に多く、橋げたは単純な構造で、流木が引っかからないように

欄干(らんかん)のない橋もあります。大雨の時は使用できませんが、押し寄せる水に

逆らわず、シンプルな構造のため被害を受けても修復が早い。

高度な技術ではありませんが、自然に逆らわない橋なんですね。頑丈に作りすぎると、

流木や土砂が水をせきとめてしまって、周辺に洪水を引き起こすことがある。

自然と対決しない知恵という点では、霞提(かすみてい)もあります。

洪水の多い大きな河川の堤防で、堤のところにわざと切れ目が作ってあります。切れ目は川の流れと反対の方向に開いていて、水はこの切れ目から遊水地へとあふれでてとどまります。

洪水が終われば、水は自然に川へと戻る仕組み。遊水地は農地で、肥沃な泥が残される。

 

雨は嫌いですが、空梅雨となれば農作物への影響は大です。農家にとって、梅雨は慈雨。

降るべきときに降る。照るべきときに日が差す。そいした周期で、自然の中で人間は

共生してきました。

とはいえ、仕事など、通勤、外回りは、黒い雲、雷鳴、急に涼しい風が吹く、という

大雨のサインは見逃せないですね。

名越屋沈下橋