リョウガのページ

小さな嬉しいことを発見する、今話題のことを思う

昔蘇った賞とショーの違いを思い出す

子どもの頃大晦日のお茶の間風景と言えば、家族でこたつを囲んで午後7時から

年が変わる直前まで歌番組を見るというのが家庭における定番だった。

民放とNHKの2つの歌番組。

ところが今ではそのような過ごし方をする家庭は少なくなった。民放の歌番組は

ヒット曲に大賞を与えるというものだが、自分自身も25年以上も見ていませんし

何の関心もない。

 

その昔、大晦日で大賞をもらう曲は、日本人の心に残る文句のつけようがない

その年の大ヒット曲だった。まさに”大賞”の名に恥じない名曲が受賞していた

し賞には威厳があった。毎年ワクワクしながら見ていたように思える。

それがいつのまにか、若い層以外は聞いたことがない曲ばかりが受賞する。

いわゆる出来レースというやつだ。”賞”がたんなる”ショー”になり、重みが

年々軽くなっていったことを感じとり、興味がうすれていった。

日本中をワクワクさせるような歌に関する賞には、もう巡り会えないかも

しれない。せっかく盛り上がっていた賞を、ショーにおとしめたのは残念。

 

権威ある賞の周りでは時として利権が動く。様々な思惑が入り交じり、あらぬ

方向へ誘導されてしまう。

昨年、世界的権威ある文学賞で腐敗疑惑が持ち上がり、選考取りやめになった

のは記憶に新しい。

その1部門の平和賞も、受賞者を決める選考会委員はたったの5名に、対する

ロビー活動が活発に行われていることを暴露する本が出版されて話題になった。

選考委員への売り込みや、贈答といった行為が裏ではあるとうい。

賞を政治利用しようとすると、実にみっともなくて恥ずかしい行為。

いっそのこと政治家は選考対象にしない方針を明確にしたらどうか。

独裁的傾向が強い政治家ほど、国民の人気取りのために賞を利用しようとする

からだ。

一方では地球上では心の底から世界平和のために地道な努力を積み重ねている

政治家も存在する。そんな人ほど平和賞の名に値する。

でも、そういう政治家は賞には興味を示さないが。

 

番組の話に戻るが、大賞に選ばれた某ロックバンドが「賞レースには参加しない」

として出演を拒んだことがあった。番組の人気を維持したいとのいテレビ側の

思惑は通じず、シラケムード漂う放送内容だった。

それ以降番組の路線が変わり、賞の価値が低下していったように思える。

賞を贈りたい気持ちは満々なのに、肝心の相手からソデにされることは時折起きる。

送りたい側のよこしまな心を見透かしている相手の方が、1枚も2枚もうえなのである。