「日本歌謡会社」のサラリーマン 筒美京平。
「お魚くわえたどらネコ お~おかけって~」
「街の明かりが とてもきれいなヨコハマー ブルーライトヨコハマー」
「また逢う日まで 逢えるー時まで 別れのそのわけは話したくないー」
「恋人よー 僕は旅立つー 東へと向かう列車でー」
また一人、昭和を代表する巨匠がこの世を去りました。
(犬も歩けば作品にあたる) と例えても過言ではないほど、
昭和の歌謡曲シーンでは、作曲者として彼のクレジットが
ごく当たり前のようにそこに並ぶ。
あの曲も、この曲も。
ヒットチャートに登場した曲は延べ500以上のも上がり
1971年(昭和46年) のレコード大賞の
大衆賞 「さらば恋人」 (堺 正章)、
新人賞 「17才」 (南 沙織)、
作曲賞 「雨がやんだら」 (浅丘 雪路)、「真夏の出来事」(平山三紀)
歌唱賞 「さいはて慕情」 (渚 ゆう子) という6つの賞を獲得。
その勢いは80年代に入っても衰える事はなく、空前のアイドル・ブーム
の陰にも、やはり 「筒美 京平」 の名前はありました。
2019年12月に放送されたとある番組で、フォークの神様吉田拓郎は
「すごくいいなー」 と思うほど、筒美 京平の曲で、「やったなー」 と思うとやっぱり筒美 京平の曲で、「ん~ふふ~ん」と口ずさんでいるもの
やっぱり筒美京平の曲なんだよ」 って、彼のすごさについてこう語っていた。
多数のトップミュージシャンが、そのふり幅の広さに驚嘆して、
畏敬の念を払う。 「天才」 の一人と言っても決して間違いではないでしょうね。
「僕らは『日本歌謡会社』に勤めているサラリーマンなんですよ、って
(笑)」。
2002年のインタビューでは、自身のポジションと全盛期の歌謡界における音楽製作現場をこう振り返っていました。
自らが前面に出ることをかたくなに拒み、
どれだけ売れても 「俺が作ってやった」と上から目線になることもなく、
ただひたすらに「作曲家」 としての仕事に没頭した。
それも「自分の好きな音楽を作る」 ではなくて
「ヒット曲を作る」 lことが求められる役割の唯一無二として。
旅行や映画鑑賞を好んで、おしゃれにも敏感だったと聞かれる筒美氏だが、それも時代時代にあった曲作りをするにあたってのセンスを
磨くためであったのだろうと想像できます。
与えられる役割を丁寧にこなして、その一つ一つが合わさる事で作品が出来上がり、世に出て行くー。
「何事も目立たなければいけない」 「俺が俺が」 との自己主張は
確かに必要だけれども、筒美氏の生き様は、
組織に属する職業人「サラリーマン」の一つの在り方を教えてくれるように思う。