リョウガのページ

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東京一極集中の歴史の続き、「問題は1940年体制までさかのぼります」

前回の続き・・・

1940年 体制 とは

 

前回ご紹介したとおり 「東京一極集中」の歴史をたどっていくと、

今日の東京一極集中はやはり当然の帰結といえるでしょうね。

 

戦前の東京と大阪は経済規模でほぼ拮抗していました。

これが東京一極集中へと傾きはじめたのは、戦時中の国家総力戦体制が発端なんです。

元大蔵官僚の経済学者・野口悠紀雄氏はこれを「1940年体制」と

名付けました。

戦時期に生まれた「日本型経済システム」が今、

我々を蝕んでいる

1分で分かる!激動の昭和史 昭和15年(1940年)そのときあなたは ...

1940年体制を主導した革新官僚は、給与所得への源泉徴収制度を

導入して戦費調達システムを確立。

聖戦完遂のために国家総動員法のもと統制経済を推しすすめて、

人も物資も根こそぎ総動員しました。

終戦後の官僚機構は、内務省以外ほぼ無傷のままで生き残ったんです。

目の上のタンコブであった軍部が解体されてのを好機に、官僚たちは

意のままに中央集権的な仕組みを強化して戦後復興や産業振興に取り掛かったんです。

強力な行政指導の下、 「護送船団方式」 で奇跡の高度経済成長を

果たしました。

ここまでは良かった。

自民党政権と政官協調路線も正常に機能しました。

 

中央官庁は、経営・企画・立案・情報などの機能を東京に集中させることに注力したんです。

その意を受けた民間の大企業は許認可を受けるのに便利な東京へと本社移転し始めた。

それに付き従って全国から多くの企業や人が東京へ集まってきた。

 

一方、大阪は本社の流出が止まらなくなった。

1968年の日米繊維摩擦の際には、通産省の圧力で繊維業界団体の

大部分が東京へ移転させられました。

地方の経済は停滞し、格差は拡がるばかりであった。

 

このように、東京一極集中の元凶は、戦時中の1940年体制の残滓(ざんし)が戦後も霞ヶ関の官僚機構で脈々と生き長らえてきたことにあります。

経済大国となって官主導の経済成長が役割を終えた後も、官僚は

許認可権を手放そうとしなかった。

 

そしてバブル崩壊でほころびが露呈した。

株価や不動産価格は市場原理によって決まるものであって、官僚が

市場に命令して決定するものではない。「バブルはケシカラン」とばかりに強行した不動産融資総量規制が、結果的にバブル崩壊の引き金となっていまったんです。

その後、省庁再編や規制撤廃などの行政改革や官邸主導政治で

官僚体制は弱体化しました。

しかし官主導が官邸主導になっただけで東京一極集中に変化は無かった。

 

ところで、政治家や有識者の多くが東京一極集中の是正を口にこそすれども、なぜかその元凶たる1940年体制についてほとんど言及しません。

もし本気で解決する気があるのならば、まずはその根本原因を正さなければならないはず。

私なら、道州制か連邦制への移行を提案したいところですね。

中央政府は外交と安全保障、出入国管理と関税、通過管理(日銀)

に徹し、江戸時代にならって地方分権を進めて、地域に根差した行政を充実させるべきと考えますが、みなさんはいかがですか?

ちょっと、硬くなりすぎたお話でした。

シリーズ完結・・・。しませんよ、つづく・・・