リョウガのページ

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この人たちの世間とは・・・

この人たちの世間

 

私たちの日常生活に「おける意識は、深い哲学や信仰がその根底にあるわけではない。

「神様に誓って」といったフレーズが日々の会話に出たためしはなだろう。

私たちはむしろ「世間の目」という実に曖昧なものを気にしながら生きているんです。

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 世間ずれ

例えば、「世間知らず」とは世間の事事情にうといこと。

世間の常識や礼儀などにかなった身のこなし方ができないと、世間知らずになるわけです。ご近所なのに葬儀に出席しなかっりすると、周りの人から相手にされない、排除されるのではないかと危惧したりする。

日本人は万葉の時代から「世間」という文字を「よのなか」とも読んでいて、神様よりも世間の目の方をずっと怖がってきました。

歴史学者阿部謹也氏は「世間とは、個人個人を結ぶ関係の環」と定義していますね。個人個人がある種の関係性で結びついて生きているのが世間である。国家には法律がある。しかし、世間には明確な法律や定款などありません。個人の方も絶対的な基準や尺度を持っているわけではないため、他の人間との関係の中に基準をおいて行動しています。互いにせめぎあうような激しい競争関係の中で生きていくよりも、与えられた位置を保ちながら生きていく方が楽と思う人は多いでしょう。

日本人にとっては周囲と折り合ってゆける限り、世間の中で生きていく方がいきやすいのです。

もし、世間がなくなってしまったら、私たちの多くは行動の指針を失い、逆に困惑してしまうかもしれません。日本人は長い間、世間の基準として生きてきたからです。世間に多少の不満はあっても、そこから追放されることは望まない。会社や同窓会、趣味のサークル、スポーツ関連のクラブなども形を持って属する一つの世間です。政党の派閥も一つの世間であって、そこでは自分たちの世間の利害が何よりも優先されています。

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さて、東北新社にはじまり、NTTの総務省幹部への接待問題が話題になりました。官僚の忖度や永田町の先生がたへの疑惑はここ数年繰り返されていて、特段新味のある話ではありません。それでも世間ではこうした会食も忖度も実は普通のことであって、そこには何のやましいさもない。そこで生き抜いていくためには必要不可欠なことなんでしょう。ただ、それが少し広い範囲の世間では、禁止事項になっているだけなんです。したがった、外の世間にはばれなうちは問題にはならず、ばれたときは誰かに責任をとってもらい、その間はじっとしていればいい。

これがこの人たちの世間の常識fだったんですね。・・・