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酒は百薬の長の本当の意味

緊急事態宣言中で、飲食業は大打撃受けています。

中でも、アルコールを振舞う居酒屋などが悲鳴を上げています。

 

その酒について考えてみました。

お酒は百薬の長・・・

 

酒は百薬の長」は、お酒好きに都合のいい名言…ではなかった!心底 ...

 

 

さかのぼる事、中国王朝の歴史には「前漢」と「後漢」の間に 「新」という時代がありました。

西暦8年~23年で今から2000年前です。

わずか1代15年で滅んだ「新」は知らない人が多いでしょうが、この時代に一つのことわざはあまりにも有名です。新の皇帝王莽(おうもう)が酒を称して言いました「酒は百薬の長」と。

王莽は財源として酒税を創設し、その際、消費を促進するためにこの文句を民に発布しました。

今年の花見も昨年に引き続き「コロナ禍での花見スタイル」が求められた事で、桜の木の下にシートを広げ、酒盛りをする人たちをみかけなかった。桜の下で飲む酒は「花見酒」と呼ばれて、風流なものです。

平安時代初期には貴族を中心に儀式や行事として行なわれてきたとされ、桃山時代には庶民も桜の名所に出かけ、花見酒を嗜んでいたというから歴史ある文化です。そんな数百年もの間、連綿と続いた文化も「感染予防」のもとに規制がかかってしまいました。

1598年4月20日、京の都から南東に位置する名刹(めいさつ)醍醐寺で歴史に名の残した盛大な花見「醍醐の花見」が行なわれました。参加者は秀吉配下の武将の家族を中心に女性ばかり1300人余り。その1年前、秀吉の家臣であった前田玄以(げんい)が花見奉行に任じられ、準備を開始。玄以はこの花見に向けて近隣から桜の木700本を選び、総門から仁王門に移植しました。

当日は絶好の花見日和で、参加した女性は2度のお色直しを行い、約3000着も着物が用意されました。現代に残る「醍醐花見図屏風」には、赤い傘の下を歩く秀吉が茶屋へと向かう様子がうかがえる。茶屋には全国各地の酒の銘柄が並べられたというから、参加者はさぞ花見酒に舌鼓を打ったことでしょう。しかし、この花見酒は秀吉にとって最後の美酒となった。天下統一を成し遂げ、生涯最高の花見酒に酔いしれた醍醐の花見を終えると、秀吉は体調を崩し、その5ヵ月後に62年の生涯を閉じました。

 

醍醐の花見 | しあぽんのランチブログ

 

そしてその2年後の関が原の戦いで天下は徳川に代わったー 「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」。 とは秀吉の辞世の句。

秀吉にとって最高の舞台での花見酒は、残念ながら百薬の長とはならなかったようです。

兼好法師は「徒然草175段」において「百薬の長とはいへど、よろずの病は酒よりこそ起これ」と記す。

中国皇帝の言葉が2000年もの時を越えて語り継がれてきたのは、なんだかんだ言っても酒飲みの言い訳に適していたからでしょうか。 

京都「醍醐寺」で醍醐の花見!秀吉が最後に見た桜を愛でよう | 京都府 ...