リョウガのページ

小さな嬉しいことを発見する、今話題のことを思う

大阪都構想による、一極集中について(歴史編)

一極集中について・・・

 

大阪では、昨日大阪都構想の是非を問う投票がありました。

残念なのかどうかは分かりませんが、反対過半数で反対になりました。

無駄なお金、二重行政を解消できずにまた同じ大阪市の景色を見ながら過ごしていかねばなりませんね。住民にはとてもよい事が起こるのに。きっと分からないまま、不安でこのままでいいと、反対票を投じたのでしょう。特にお年寄りの方々。・・・

 

目指すは「副首都」!? : 大阪と東京を比べてみる | nippon.com

 

大阪では、都構想が成立しませんでしたが、東京はすいすいと行っていますね。

その東京の一極集中について。

一極集中の問題は一向に解決する気配もありません。大阪なんて市の存続をいまだにぐずぐず言っているだけで、それに対する東京の一極集中は加速度を上げるばかりです。

舞尾空のメッセージノート作成法 東京一極集中は誰にも止められない

 

これを解消するためには、その根本原因に迫る前に、予備知識として、

現代の東京一極集中に至る日本の歴史をひも解いていきましょう。

ちょっと大雑把ですがお付き合いください。

では、

日本の歴史は 「中央集権と地方分権のせめぎ合い」 の歴史でもあるんですね。

内憂外患(ないゆうがいかん:国の内側にも外側にも問題や心配事がたくさんあること。「内憂」は内側に問題があることで国内の問題のこと。 「外患」は外側に問題があることで外国から受ける災難や問題のこと。)の際には中央集権に向かって、危機が去ると締め付けを嫌って地方分権に向かう。

これの繰り返しなんです。

 

古代の日本列島には土着の倭人や渡来人のコロニーが無数に存在していたんです。

これが集約されて、筑紫、日向、出雲、吉備、丹波、越、河内、尾張などの国が誕生しました。

最も優勢だった北九州の筑紫は、大陸や半島に近くて鉄器の流通を独占して倭国を牛耳った。

これに対して他の国は奈良の纏向(まきむく)に連合政権を樹立。

日本海ルートを開拓して半島と直接交易して力をつけ、筑紫から倭国主導権を奪った。

しかし、倭国は白村江で唐新羅軍に大敗。国土防衛策を急ぎ、

大宝律令、日本国号、天皇号を制定して権力の集中を図った。

 

平安時代に入って太平の世が続くと、地方豪族や有力農民が武士となり、所領の自治を巡って朝廷と対立。

武家政権の幕府を開設して統治権を掌握した。

その後、相次ぐ戦乱で幕府も朝廷も衰退すると群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の戦国時代に突入。

乱世の末、織田信長豊臣秀吉が全国統一を成し遂げ、

絶対的中央集権体制を完成させるが、一国一城の主として独立心旺盛な戦国武将の反発は大きく、職豊(しょくほう)時代は短命に終わり、

徳川家康江戸幕府を開いた。

江戸時代は大名に領地を統治させる封建政治=地方分権体制であった。

幕府は軍備を縮小して小さな政府に徹し、伝統ある地方名産品の多くを生み出した。生産は全国各地で、流通は大坂、消費は江戸というよに経済が分散していた。

 

第38回日本史講座のまとめ① (商業・金融の発達) : 山武の世界史

 

近代に入ると、黒舟来航を契機に欧米列に対抗すべく天皇を頂点とする中央集権国家となり、富国強兵で日清・日露戦争に勝利し、

世界の五大強国に登り詰めた。

ただし関東大震災で帝都東京が壊滅すると、大阪が発展して

大大阪時代」を迎えた。また全国の主要都市には陸軍の駐屯地や軍需工場があって、軍都として栄えた。

当時は地方でも江戸時代の地方分権のリソースがまだ健在であったが、太平洋戦争で革新官僚による国家総動員体制のもと根こそぎ動員された。

戦後も官僚の中央集権体制が続き、経済大国となって社会が安定すると東京一極集中の弊害が表面化し、地方分権が求められるようになって今日に至るのである・・・。

おしまい。

次回は、この歴史の流れを踏まえ、今日の東京一極集中の根本原因に迫りたいと思います。

それではまた、見てくださいね。